(町田 明広:歴史学者)

◉八月十八日政変160年―黒幕は中川宮と高崎正風か①
◉八月十八日政変160年―黒幕は中川宮と高崎正風か②
◉八月十八日政変160年―黒幕は中川宮と高崎正風か③

八月十八日政変における孝明天皇の立場

 文久3年(1863)の八月十八日政変によって、それまで京都を牛耳ってきた長州藩や三条実美ら過激廷臣といった即時攘夷派は、中川宮や薩摩藩・高崎正風を中心とする未来攘夷派のクーデターによって政権の座を追われ、京都から追放されてしまった。

 そもそも、孝明天皇は即時攘夷を唱えており、破約攘夷の実現を幕府に迫り、即時攘夷派と歩調を合わせてきた。しかし、実際に外国船を砲撃する攘夷実行を行ったのは、長州藩のみとしても過言ではなく、即時攘夷派にとっては、極めて不本意な実情に直面していた。

孝明天皇宸影

 そこで、即時攘夷は孝明天皇を御所から出御いただき、攘夷実行の陣頭に立っていただくことを画策した。いわゆる、「大和親征(行幸)」である。しかし、孝明天皇の反応は長州藩の期待に反するものであった。天皇は、攘夷実行はあくまでも武臣がすることであり、天皇自ら廷臣を引き連れてまで行うものではないとの認識であった。攘夷実行は実現すべきであるが、長州藩はやり過ぎであるとの思いを強くした天皇は、中川宮に政変実行を指示したのだ。