文久3年(1863)の八月十八日政変によって、それまで京都を牛耳ってきた長州藩や三条実美ら過激廷臣といった即時攘夷派は、中川宮や薩摩藩・高崎正風を中心とする未来攘夷派のクーデターによって政権の座を追われ、京都から追放されてしまった。 そもそも、孝明天皇は即時攘夷を唱えており、破約攘夷の実現を幕府に迫り、即時攘夷派と歩調を合わせてきた。しかし、実際に外国船を砲撃する攘夷実行を行ったのは、長州藩のみとしても過言ではなく、即時攘夷派にとっては、極めて不本意な実情に直面していた。 そこで、即時攘夷は孝明天皇を御所から出御いただき、攘夷実行の陣頭に立っていただくことを画策した。いわゆる、「大和親征(行幸