イギリス東インド会社の汽走軍船ネメシス号に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新史探訪2023(1)幕末維新史の分かり難さとは①https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73357
幕末維新史探訪2023(2)幕末維新史の分かり難さとは②https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73358

アヘン戦争の衝撃と準備された幕末

 幕末維新史は、「尊王攘夷」vs.「公武合体」ではなく、「未来攘夷」vs.「即時攘夷」であったことを説明してきた。しかし、相変わらず「尊王攘夷」vs.「公武合体」を前提にしているため、政治過程を分かりにくくしていることは否めない。今回は、「未来攘夷」vs.「即時攘夷」を基軸として、幕末史前半を概観して見よう。(拙著『攘夷の幕末史』講談社学術文庫、参照)

 江戸幕府は中国(清)帝国が形成する冊封体制外に日本を位置付け、東アジア的華夷思想に基づく「日本型華夷帝国」を形成し、海禁の一形態である「鎖国」政策を採用した。その後、18世紀末からロシアが蝦夷地方に南下を始め、イギリスが日本各地に出没をしたことから、幕府は無二念打払令を出すに至った。

 しかし、アヘン戦争(1840〜42)での清の敗北は、日本中を震撼させることになった。幕末の日本は、欧米列強によるウエスタンインパクトの波に飲み込まれ、植民地にされるかも知れない未曽有の危機を迎えたことになる。幕府は素早く対応し、対外政策を撫恤政策である薪水給与令に改め、来るべき西洋との接触に備えた。つまり、国是である鎖国は破棄することなく、撫恤政策の枠内で、何とか穏便に欧米列強と交際しようとしたのだ。

 こうした中で、ペリー来航(1853)を迎えたまさにその時、国中がパニックになり、なす術もなく植民地化の道を歩んだかというと、そんなことはなかった。それまでに、知らず知らずに為政者(武士層)や市井の知識層を中心に、欧米列強と接触する十分な準備がなされていたからだ。アヘン戦争の衝撃は、それほど大きかったのだ。

 その一方で、後期水戸学の登場によって、尊王攘夷論が勃興し、ナショナリズムの全国への浸透がもたらされていた。しかし、アジアに進出を始めた欧米列強の強大な軍事力を目の当たりにし、攘夷実行の時期や策略をどうするのかが、日本にとって大きな課題となったのだ。