和親条約による積極的開国論ヘの転換

 幕府は日米和親条約の締結(1854)によって、通商は回避して鎖国を守ることが叶ったものの、欧米列強に圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、通商条約の締結は免れないものと覚悟した。幕閣の中で極めて開明的であった岩瀬忠震ら海防掛は、むしろ積極的に開国し、富国強兵を主目的とした貿易開始の方針を打ち出した。

 この積極的な開明路線は、老中阿部正弘の支持するところとなり、鎖国から開国への対外方針の大転換が企図された。

阿部正弘

 この積極的な開明路線への転換には、岩瀬を始めとする幕閣の世界観が欧米列強との頻繁な接触によってグローバル化したことと、軍事的には欧米列強に歯が立たないという現実的な判断が背景にあった。また、この志向性は多かれ少なかれ、当時の諸侯階級においては、共通の対外認識であったのだ。祖法の鎖国に固執することは、対外戦争を引き起こし、植民地化の危機に陥ることは自明であった。

 なお、攘夷を声高に叫び続け、尊王攘夷の総本山である水戸藩の徳川斉昭ですら、強硬な攘夷行動ではなく、言を左右にして問題を先送りする「ぶらかし」戦法を支持していた。有り体に言えば、時間稼ぎをすることで相手がしびれを切らし、条約締結をあきらめて帰国することを狙った、極めて消極的で勝算のない戦略である。しかし、和親条約の締結は、「ぶらかし」戦法を木っ端微塵にしてしまったのだ。