アユタヤ歴史地区内にあるワット・プラシーサンペット ジダパ・タンスタット, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
(髙城 千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)
山田長政がビルマと戦った地・アユタヤ
旅行ガイドなどでタイ王国のスローガンに「微笑みの国」が使われるようになったのは、1980年代に政府が“微笑み”を大切な観光資源と位置づけ、観光キャンペーンに打って出たことに依る。
けれどその底流をなす「マイペンライ(大丈夫、気にしない)」という国民性は、タイ族が初めての統一国家・スコータイ朝を13世紀に樹立して、仏教を厚く信仰したのがきっかけだろう。古都スコータイの仏像はどれもが、頬がふっくらした卵型の顔で、口の端を上げて笑みをたたえる。以来800年近く経った今尚、タイは国民の94%が仏教徒で、憲法により「国王は仏教徒であり、かつ宗教の擁護者」だと規定されている。
今回紹介する世界遺産「アユタヤ歴史地区」(登録1991年、文化遺産)は、1351年にスコータイ朝を併合してから400年以上も繁栄した、タイ2番目の統一王朝アユタヤの都城である。
そもそも中国南部の山岳地帯で暮らしていたタイ族がインドシナ半島を南下して、まずチャオプラヤー川上流域の平原に築いた都がスコータイだ。さらに大河チャオプラヤーに沿って進出をつづけ、河口近くのバンコクから北80kmの下流域、3つの川の合流地点に「平和な都」を意味するアユタヤを開いた。
運河が幾つも掘られ、それを川とつなぐことで“水の道”にぐるりと囲まれた島状の都市は、内部にも網目状の水路が走り、もはや自然の川なのか人工の運河なのか見分けがつかない。水の利を活かして、はるか海の向こうヨーロッパやアジア諸国との交易で栄えたのだ。
こうした光景からアユタヤを訪れた旅人たちは、「東洋のベニス(ヴェネツィアの英語名)」と称した。17世紀の最盛期、船でたどり着いた商人の目に、黄金色にかがやく仏塔が林立する街は、海洋国家ヴェネツィアを髣髴(ほうふつ)とさせたのかも知れない。3つの王宮と375の寺院があり、推定人口19万人もの国際都市だったという。
チャオプラヤー川沿いには、ポルトガルやオランダの居留地が設けられ、特筆すべきは日本人町まであった。江戸時代の初め、徳川幕府の下で朱印船貿易が行われ、日本人が1500人以上も居住していたらしい。
最も有名なのが山田長政で、元は沼津藩の駕籠かきを務めた下級武士だが、朱印船に乗り込みシャム(現在のタイ)に渡航して日本人町の頭領の座にまで昇りつめた。そして日本人傭兵を率いて隣国ビルマと戦い、シャム王室の信任を得て、日本との外交・貿易の仲介役になった。しかし江戸幕府による鎖国によって日本人町は衰退……18世紀初めには、町は跡形もなく消えてゆく。
東西7km・南北4kmに及び、川と運河が四方にめぐる“水の都”は、英国人が「ロンドンのように見事な都市」と賞賛したものの、度重なるビルマとの戦争で疲弊していった。そして1767年、アユタヤは遂にビルマ軍の攻撃に耐えきれず陥落する。王宮や寺院が焼け落ち、街は焦土と化した。
略奪されたまま放置されたアユタヤで、発掘調査や修復が開始されるのは20世紀半ばからだが、たちまち仏塔の下から冠や靴・ゾウを象った黄金製品が幾つも発見される。さらには「アンコール・ワット」の大伽藍を想起させるほど、壮大な仏塔をもつ堂宇も蘇ってきた。西洋人が描いた古い絵図の、夢の残り香がそこにある。