即時攘夷の登場と挫折

 孝明天皇が認めない通商条約を、どうしても許せない勢力が登場する。久坂玄瑞を中心とする松下村塾グループに牽引された長州藩や、三条実美や姉小路公知などの過激廷臣である。長州藩は、「未来攘夷」策である航海遠略策を捨て、通商条約の破棄を骨子とする「即時攘夷」を唱えて中央政局を牛耳り国政をリードした。

久坂玄瑞

 とは言え、富国強兵を早期に実現し、世界に侵出しようとする長州藩の主張は、「未来攘夷」の一方策である航海遠略策そのものであり、孝明天皇が承認した対等な立場での通商条約であれば、むしろ歓迎する姿勢を示した。しかし、あくまでも勅許された通商条約のみを容認する立場であり、尊王をないがしろにしていると弾劾する幕府のやり方には、断固として反対する強烈な志向があった。

 長州藩は攘夷をほぼ一藩で実行し、また、そのための報復攻撃を受けることになった。具体的には、下関事件(文久3年5・6月)や四国艦隊下関砲撃事件(元治元年8月)、総称して下関戦争(1863〜64)と呼ばれる一連の対外戦争を戦って、欧米列強の前に沈黙を余儀なくされた。また、八月十八日政変(1863)や禁門の変(1864)によって、国政でも勢威を失い、引き続き起こった第一次長州征伐(1864)によって、「即時攘夷」を推進する一派は、ここに潰えた。

 しかも、その1年後の慶応元年(1865)10月に通商条約は勅許され、理論的には日本から攘夷は消え失せてしまう。この間に、長州藩も「即時攘夷」から「未来攘夷」へと、世界観の転換を余儀なくされたのだ。

 これ以降、「未来攘夷」vs.「即時攘夷」の政争から、日本の近代化を実現するためには、政体をいかにすべきか、つまり幕府機構を維持したまま移行するのか、または、朝廷を中心にした新しい公議政体を創設するのか、政争の根本は政体の在り方に主軸を変えることになる。