嘉永6年(1853)7月14日、ペリー提督一行初上陸の図
(町田 明広:歴史学者)
黒船の衝撃と西周への影響
嘉永2年(1849)10月から4年(1851)10月まで、西周は大坂・岡山に遊学した。嘉永6年(1853)2月、津和野在住の西は、江戸・外桜田(千代田区内幸町)藩邸の留守居役補佐と藩邸内の時習堂教授への就任の辞令を受けた。
5月上旬出発のために4月4日に養老館での教育活動を終え、江戸行きの準備中のところ、26日に津和野城入城以降、初めての大火で出発を延期した。しかし、7月1日、ペリー来航(6月3日)のための幕命を待たず、沿岸防備のため28日に江戸藩邸に着いた。
ペリー来航は、日本という国家全体の運命を揺るがしただけでなく、西周という一人の儒学者のキャリアパスにも決定的な影響を与えた。西洋の圧倒的な科学技術力を象徴する「黒船」の衝撃は、幕末日本の閉塞感を打ち破り、伝統的な学問の限界を白日の下に晒した。この国家的危機は、西を知のフロンティアである洋学へと突き動かす強烈な動機となり、彼の個人的決意を国家の戦略的要請へと昇華させたのだ。
加えて、ペリー来航という歴史的事件は、西を始めとする当時の知識人たちに、漢学の知識だけでは国家を守ることができないという厳しい現実を痛感させた。西洋の科学技術の優位性はもはや疑いようがなく、その知識を吸収することが国家存亡の鍵を握る急務であるという認識が、急速に広まっていったのだ。

