西周の洋学修得へのまい進
脱藩という形で自由な身となった西周は、猛烈な勢いで西洋の知識を吸収し始める。まず、オランダ語を自藩の池田多仲、福井藩支藩・大野藩士某に、数学は自藩の桑本才次郎に学んだ。その後、杉田成卿(玄白の孫)、手塚律蔵(義兄弟)に入塾して、オランダ語と数学の学修を深めた。
また、蘭英対訳辞書を駆使して、独学で英語の学習を開始した。さらには、アメリカ帰りの中浜万次郎(ジョン万次郎)に直接英語会話を学ぶなど、実践的な語学習得にまい進したのだ。
中浜万次郎
西の才能と熱意は、当時の洋学者のネットワークの中で高く評価された。安政4年(1857)5月、蕃書調所教授手伝並として、幕府の洋学研究機関である蕃書調所へ出仕した。それにあたっては、臣籍(武士としての身分)を持たない彼のために、師であり義兄弟でもあった手塚律蔵らが奔走してくれた。
手塚は、自らがかつて仕えた老中首座・堀田正睦に働きかけ、西周を「堀田備中守家来、佐波銀次郎(手塚の門下生)厄介西周助」という架空の身分で届け出るという、離れ業をやってのけた。これは、当時の学問の世界において、個人の能力とともに、人的ネットワークがいかに重要であったかを示す逸話である。
なお、同年10月、後に15代将軍となる一橋慶喜に対して、「蝦夷地開拓の議」(「丁巳十月草稿」)を水戸藩士菊地忠を介して建言した。当時としては、特筆すべきハイレベルで詳細な北海道開拓の建議を行ったのだが、慶喜からはまったく反応はなかった。しかし、西と慶喜とのその後の縁を考えると、歴史の妙を感じる。