池田長発 出典:尾佐竹猛『夷狄の国へ : 幕末遣外使節物語』万里閣書房
(町田 明広:歴史学者)
攘夷家・池田長発の世界観の劇的変転
文久3年(1863)12月から半年間、池田長発は遣欧使節団の全権としてパリに渡った。そして、横浜鎖港談判を行なったが、まったく相手にされずに帰国せざるを得なかった。結果として、使命を果たすことが出来なかった池田であるが、その世界認識がどのように変化したのかを見ていこう。
池田は随員の1人である原田吾一がそのまま西欧に残り、留学をしたいとの希望を受け入れ、オランダでの留学を斡旋した。実は、元治元年(1864)1月9日、西欧に向かう途中で上海に寄港した際、密航していた広島藩士長尾幸作・薩摩藩浪士上野景範ら4名から出された、留学のための海外渡航許可を求める願書に接した。池田は彼らに対し、国禁であるとして許さず、上海駐箚米国領事に委嘱して帰国させた事実があった。
上野景範
池田は、帰国後に海外渡航の解禁建白をしている。原田のオランダ留学の希望を滞仏中に実現し、しかも、自分の一存で決めるほど認識を改めていたのだ。池田の世界観は既に大転換していた証左であろう。
さらに、池田はフランス政府からの勧めもあいまって、帰国後にフランスへの留学生派遣に尽力することまで約束している。上海で取った行動と比較して、池田がいかに留学生の派遣の重要性を悟ったかが、これらの事実からうかがえる。西洋の制度・文物の受容を日本の若者たちに託す必要性を、肌で痛切に感じていたからこそであり、世界観の大きな変化が読み取れるのだ。



