西周の覚悟の脱藩

 この時代認識を背景に、西周は生涯を左右する重大な決断を下す。安政元年(1854)、彼は洋学修得に専念するため、藩主に脱藩を願い出たのだ。その願書には、彼の悲壮なまでの覚悟が滲み出ている。以下、その内容を現代語訳で見てみよう。

家業である医家出身の自分が、藩主の抜擢を受け、一代還俗の上、儒学を学ぶことになり、遊学も許可された。しかし、短才薄力の身で何の功もないにもかかわらず、地位も昇進した。このたびペリー来航に際し、その対策として一員に加えられ、藩邸でも講釈の役につくことにもなった。幸いにも異国船来航も異変は起きることはなかったが、この際、自分は藩に暇を願い上げ、(西洋学を学ぶべく)遊学を許可していただきたい。もし志が成就しないときには、如何なる罰も受ける覚悟であり、もし学問の成就したおりには忠勤に励み、大恩に報いたいと思うので、よろしく藩主にとりなして頂きたいとお願いする次第である。

 要約すれば、「短才薄力の身」でありながら、藩主の抜擢を受け、儒学を学ぶ機会を与えられたことに感謝しつつも、この国家の危機に際して西洋学を学ばなければならないと痛感している。もし志が成就しないときには、如何なる罰も受ける覚悟であり、もし学問の成就したおりには忠勤に励み、大恩に報いたいと思うと訴えたのだ。

 この揺るぎない意志は、藩の指導部の心を動かした。家老だけでなく、養老館の国学者であった大国隆正までもが西の志に深い理解を示し、脱藩を後押ししたのだ。純粋な日本の伝統を追求する国学の重鎮が、西洋科学の学習を奨励したという事実は、この国家的危機が従来の学問的対立を超え、いかに深刻かつ広範に認識されていたかを物語っていよう。

大国隆正