文久2年(1862)、幕府がオランダに派遣した、最初の留学生。右端が西周。『幕末名家写真集』第1輯所収 出典/国立国会図書館デジタルコレクション)
目次

(町田 明広:歴史学者)

西周のオランダ留学の意義―近代国家構想の萌芽

 西周は、文久2年(1862)から慶応元年(1865)までの約3年間、オランダに留学した。この留学は、単なる西洋技術の習得を目的としたものではなかった。それは、来るべき新国家・日本の設計図を描くための、壮大な知的探求の始まりであったのだ。

 ヨーロッパの学問の中心地ライデンで、後述する通り、西による法学や経済学といった「治国学」の体系に直接触れた経験は、彼の思考を根底から変革した。この留学こそが、断片的な洋学知識を統合し、明治国家のグランドデザインを構想する上で不可欠な理論的支柱を彼に与えたのだ。

留学の実現と苦難の航海

 西周のオランダ留学への道は、決して平坦ではなかった。西は万延元年(1860)の遣米使節団に加わるため、運動を開始した。当初、使節は水野忠徳、永井尚志、津田正路に決まったため、西は盟友の津田真道とともに永井の屋敷に出かけ直談判し、その願いは聞き入れられたかに見えたが、大老井伊直弼による一橋派弾圧で永井らは使節を外されたため、約束は不履行となった。

津田真道

 文久元年(1861)の遣欧使節団への参加を熱望し、正使竹内保徳に直談判まで行ったが、こちらも実現しなかった。しかし、その後も大久保忠寛(蕃書調所頭取)に留学実現の運動を継続し、粘り強い運動の末、アメリカ留学の内命を得た。しかし、今度は南北戦争の勃発で計画が中止となり、留学先はオランダへと変更された。これは、西にとって天佑であったが、当時の彼は知る術もなかった。

 文久2年(1862)、ようやく実現した留学の途上も困難の連続であった。幕府軍艦・咸臨丸で品川を出帆後、長崎でオランダ船カリプス号に乗り換えたが、この船がインドネシアのバンカ島とビリトン島間の海峡で暗礁に乗り上げ座礁するという災難に見舞われた。

 別の船に乗り換えるという苦難を経て、翌年6月、ようやくオランダの地を踏むことができた。西は横浜出港から約8か月後にヨーロッパへ到着したことになり、当時であっても倍の時間を費やす厳しい行程であった。西の留学は、様々で多大な困難の末に勝ち取られたものであったのだ。