(町田 明広:歴史学者)
◉幕末維新人物伝2022(24)孝明天皇は毒殺されたのか①(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72970)
◉幕末維新人物伝2022(25)孝明天皇は毒殺されたのか②(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72972)
孝明天皇の症状の推移
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇は急逝されたが、12月12日に発症し、17日に至って天然痘と公式に公表されたことは、前回詳述した。
12月18日、公式見解では「益々御機嫌よく」、発疹も良性であるとされた。しかし、その晩には紫色の発疹が数か所、見られたとある。これは悪性であり、病死説の大きな拠り所となっている。孝明天皇は安眠できず、便通時の下血も見られ、様々な薬が調合されている。
19日からは食事も採れており、「益々御機嫌よく」との報告が繰り返された。しかし、『中山忠能日記』(以下、『中山日記』)には、「昨七ツ頃(午後4時頃)、御匙(医師)伺い候処、御足辺の御出物色合変わり、御匙久野も大に驚き恐入り候様子、一同心配致し候」と、不吉な指摘が見られる。
21日、『中山日記』には「御順道」とあり、回復基調がうかがえ、喜ばしいことであると記しているように、順調に治癒に向かっていると認識されている。22日も安眠が可能となっており、食欲も排泄の方も順調で、23日には発疹の膿も収まり、かさぶたになって乾き始めたとする。ここからは、安堵な雰囲気が伝わってこよう。
ところで、『中山日記』(22日条)に、天然痘であった廷臣が治癒直後に参殿していることを強く非難し、感染源であった可能性を指摘している。確かに、孝明天皇の実父である仁孝天皇が罹患されており、かつ同時期に廷臣も罹患していることから、天然痘がいつ朝廷内で発症しても不思議ではない状況下にあった。孝明天皇の罹患も、また同様である。