(町田 明広:歴史学者)
◉幕末維新人物伝2022(24)孝明天皇は毒殺されたのか①(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72970)
孝明天皇の死因をめぐる学会の動向
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇は急逝されたが、その崩御があまりに突然であり、劇的であったため、その当時から毒殺説がまことしやかに喧伝されていた。しかし、明治維新後の日本では、天皇が暗殺された可能性など、とても人前で論じることなどできる雰囲気ではなく、孝明天皇毒殺説が活発に議論され始めたのは戦後のことである。
現在は病死説が優勢のようであるが、決定的な一次史料が発見されなければ、いずれかに断定することは困難である。まずは、学会におけるこの間の動向を概観して見よう。
毒殺説が俄然注目されたのは、ねずまさし(歴史学者)「孝明天皇は病死か毒殺か」(『歴史学研究』第173号、1954年)による。孝明天皇の死に至る経過を分析し、死因を急性毒物中毒、つまり毒殺だと主張して、アカデミズムの世界に大きなインパクトを与えたのだ。
さらに、侍医であった伊良子光順の曾孫である光孝氏が1975年から日記類を公開し始めたが、そこには毒殺を疑っている記述が含まれると指摘した。天然痘がほぼ治癒した段階での様態の急変、そして異常な症状を、単なる天然痘として説明することが出来ないと主張したのだ。これらを踏まえ、石井孝や田中彰など、毒殺説を主張する幕末史研究者が多数に上った。
しかし、原口清(当時、名城大学教授)「孝明天皇の死因について」(『明治維新史学会報』第15号、1989年)によって、状況は一変する。孝明天皇の死因は悪質な紫斑性痘瘡、または出血性濃疱性痘瘡であり、つまり天然痘による病死だと明確に主張したのだ。
唯一の反論者が石井孝(当時、津田塾大学教授)であり、1990年から翌年にかけて、激しい論争が繰り広げられた。論争の決着がついたとは言い難いが、原口論文の歴史学会に与えた影響は大きく、毒殺説から病死説へ主張を転換させた著名な研究者が何人も現れた。