慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇は急逝されたが、その崩御があまりに突然であり、劇的であったため、その当時から毒殺説がまことしやかに喧伝されていた。しかし、明治維新後の日本では、天皇が暗殺された可能性など、とても人前で論じることなどできる雰囲気ではなく、孝明天皇毒殺説が活発に議論され始めたのは戦後のことである。 現在は病死説が優勢のようであるが、決定的な一次史料が発見されなければ、いずれかに断定することは困難である。まずは、学会におけるこの間の動向を概観して見よう。 毒殺説が俄然注目されたのは、ねずまさし(歴史学者)「孝明天皇は病死か毒殺か」(『歴史学研究』第173号、19