(町田 明広:歴史学者)
薩摩藩・会津藩の連携が始まる
文久3年(1863)、中央政局は即時攘夷を声高に唱える長州藩や、三条実美ら過激廷臣によって牛耳られていた。長州藩では、攘夷実行の期日である5月10日から外国船の砲撃を開始したものの、追随する藩は現れず孤立無援の状態が続いた。即時攘夷派にとって、こうした事態を打開する必要に迫られていた。
即時攘夷派の切り札こそ、孝明天皇の「大和親征(行幸)」の実現であり、中川宮の「鎮撫大将軍」(西国鎮撫使)の任命であった。それを阻止するために、中川宮と高崎正風は動き出したのだ。
8月13日、中川宮の指示によって、高崎正風が会津藩へ政変決行を申し入れた。その状況を、会津藩側の史料『鞅掌録』(会津藩公用方の広沢安任が執筆)によって確認すると、「(8月)十三日薩州人高崎佐太郎(正風)突然として我等の旅寓に来たり」とある。
つまり、高崎は何の前触れもなく、突如としての公用方の広沢安任・秋月悌二郎らを訪ねており、ここから八月十八日政変に向けた策動がスタートしたことがうかがえる。高崎は中川宮の指示を受け、即座に動いたのだ。
高崎正風の動向と松平容保の即諾
高崎正風と広沢安任・秋月悌二郎らの連携がスタートしたことに伴い、八月十八日政変に向けた画策が綿密に行われた。「高崎正風日記」の8月13日条には、「早朝秋江会、中江出、桜江昇、又中江参云々 五更 両尊より御書当来」との記載がある。ちなみに、「秋」は会津藩士秋月悌二郎、「中」は中川宮、「桜」は近衛忠煕を指している。
日記の記載によると、高崎は早朝に秋月に会い、その後に中川宮に、さらに近衛忠煕に謁見した。その後再び、中川宮に謁見し、五更(現在の午前3時から5時ごろ)に中川宮と近衛忠煕から書簡が届いたとある。実に、高崎の動きは機敏であり、精力的である。
高崎から政変決行の打診を受けた秋月は、直ちに松平容保に高崎の申入れを説明し、政変参画への諾否を迫った。容保は、薩摩藩からの正式な申入れであり、中川宮自らが政変を指揮すると判断した。そして、即時攘夷派が牛耳る京都政情を打破し、叡慮を安んじる決意から、容保は何ら躊躇なくその申入れに即諾したのだ。