(町田 明広:歴史学者)
中岡の上京と西郷来関問題の発生
慶応元年(1865)5月16日、征夷大将軍徳川家茂は長州再征のため進発した。大久保利通の上京が決定していたが、小松帯刀・大久保・西郷隆盛が不在の京都では、将軍の進発にあたって、薩摩藩の家老島津伊勢および岩下方平を中心とする在京要路は大きな不安を抱いていた。
岩下は4月30日段階で、大久保・西郷に対して自分たちの手に負えないと、至急の上京を要請していたが、進発が開始されると待ったなしの心境に追い込まれた。よって、5月24日、岩下らは帰藩して小松・西郷らの上京を促すため離京した。
なお、中岡慎太郎・土方久元(土佐藩脱藩浪士、五卿従者)、福岡藩士大藤太郎、長州藩士泉源蔵らを同伴した。これは、西郷に上京の途中で下関に立ち寄り木戸孝允と面会させ、じっくりと今後の見込みを付け、両藩が同心して協力することに大いに尽力したいと、中岡と土方が薩摩藩の在京要路に迫った結果であったのだ。
そもそも、これは中岡が4月30日、下関で木戸と会談して薩長融和を積極的に説き、それに対して木戸の反応が必ずしも悪くなかった事実が反映したものであろう。中岡は既に薩長融和に向けた薩摩藩の動向を熟知しており、木戸の藩政復帰を大きな好機として捉えていたことは想像に難くない。
中岡らの提案に対し、島津伊勢・岩下らも賛同している。しかし、岩下の帰藩目的は、あくまでも将軍進発に対応するための小松・西郷らの上京であり、そもそも、中岡らの提案を許可できる立場になく、真摯に受け止めたとは言い難い。こうした背景の下に、「西郷すっぽかし事件」が起こったのだ。