(町田 明広:歴史学者)
中岡・木戸ラインによる薩長融和路線
前回、中岡慎太郎・楫取素彦による中岡・楫取ラインによる薩長融和の推進過程を詳述した。その一方で、この中岡・楫取ラインとは別に、中岡・木戸孝允による中岡・木戸ラインが並行して存在した。慶応元年(1865)4月27日、中岡は中央政局の探索のため、大宰府を出発し、29日には下関に立寄り、大村益次郎・伊藤博文に面会、翌日には26日に帰藩したばかりの木戸と面会を果たした。
木戸は、薩摩藩が藩論を一変したとの風説を聞き及んでいたものの、とても信じられない強い不信感を抱いたまま、中岡と期せずして面会した。木戸は、五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)の近況を尋ねるとともに、薩摩藩の変化に対する風説の実否も確認した。
中岡はそれに対し、薩摩藩はこれまでとは相違し、朝廷のため尽力していると回答した。よって、木戸は三条に対して薩摩藩の動向を問うために密書を認め、土佐藩浪人で遊撃隊軍艦の後藤新蔵に大宰府まで持参させた。
その中で、木戸は薩摩藩がこれまでと違って、偽り欺くことをせずに、誠意を以て朝廷のために尽力するのであれば、我が国にとって大幸であることは言うまでもない。しかし、いまだにその実効が現れておらず、孝明天皇が薩摩藩の動向をどう捉えているのかと訝しんでいると伝える。
そして、藩主毛利敬親・広封父子は五卿と今後も行動を共にする決意をしており、そこで気になる薩摩藩の動静について、三条に見解を密に伺うことにしたと真意を開陳したのだ。この展開こそ、中岡による大きな成果と言えよう。