両ラインの結合による薩長融和の促進

 中岡・楫取ラインと中岡・木戸ラインの2つの方向性は、当初違ったものとして存在した。楫取は5月7日に太宰府行きを命じられていたが、実際の出発は14日であった。この間、前回詳しく述べた意見書を基に、藩政府では議論があったと考えられるが、木戸の来関の情報は遅くとも5月4日には藩政府に達していた。木戸の山口への到着を待って、方針を決定することにしたと考えるのが妥当であろう。

 そして、木戸が13日に山口に現れ、そこで2つのラインが結合し、薩長融和に向けて舵を切ることが藩レベルで確認された。よって、楫取は翌14日に大宰府に向けて出発することが叶った。これ以降も木戸と楫取は密に連携し、薩長融和の実現に向けて尽力することになる。

 なお、楫取の長崎行きは、その地での坂本龍馬との邂逅に直結した。そもそも、元治元年(1864)2月29日に勝海舟は長崎で楫取の訪問を受けている。楫取は長州藩の窮地を勝に救って欲しいと懇願し、勝もそれに応え、同藩の情勢を在京の幕閣に知らせ、「寛典処分」(寛大なる処置)を申し立てている。

勝海舟

 実は、龍馬も勝と行動をともにしており、楫取の知遇を得ていたのだ。この時は、この出会いが薩長融和への布石になるとは、当人同士も思いも寄らぬことであった。しかし、両者のこの再会は、俄然、薩長融和が現実味を帯びることになったことも忘れてはならない。

 次回は、薩長融和の推進の初期段階で起こった西郷隆盛の下関への訪問問題について、その実相を明らかにしてみたい。