木戸の薩長融和に向けた目論み

 木戸孝允は続けて、薩長間の離反も薩摩藩と会津藩が共謀した八月十八日政変以来であるとしながらも、薩摩藩も真に朝廷のために尽力するのであれば、将軍家茂の上洛に合わせて、薩摩藩が朝廷権威の回復のために尽力すべきである。そして、それも我が国のために、祈念していると主張する。

 また、孝明天皇も薩摩藩の深意を見極めて信頼されるのであれば、藩主父子も日本のために薩摩藩への私怨を捨てて、朝廷のために尽力する旨を伝えた。最後に、薩摩藩とは志が同じであっても、この間の事情もあるので、薩摩藩の方針が本当に変わったのか否かを藩主父子始め国中が気にかけており、その動向を問うべく密書を認めたと結んでいる。

 木戸の意見書で重要なのは、慶応元年5月段階で、薩摩藩への敵愾心は到底払拭できないとしながらも、その動向次第では私怨を捨てて、協働して幕府にあたる用意があることを示唆していることである。楫取同様、岩国領・吉川経幹以外の宗藩要路の薩長融和に向けた意向をここでも確認でき、しかも実力者である木戸の意見であることを重視したい。

吉川経幹

 これに対し、三条実美は薩摩藩の情勢に変化が見られると断言し、長州藩も過去の経緯にとらわれず、薩長の融和を図ることを強く求めた。また、使者となった後藤も同様な内容を主張したことも相まって、木戸を始め薩摩藩の変化に安堵する者が多数いた。

 しかし、一方では、相変わらず薩摩藩への不信感を露わにする者も少なくなかった。木戸は薩長融和に傾斜していたものの、藩内の反対勢力をどのように説得するのか、大きな課題を突き付けられたのだ。

 なお、木戸にここまでの薩摩藩への歩み寄りをもたらした、中岡の尽力も軽視できない。その説得に応じて、木戸は薩長融和に踏み出したのであり、長州藩としての第一歩は間違いなく中岡の功績であった。