(町田 明広:歴史学者)
朔平門外の変の特異性
文久3年(1863)5月20日、即時攘夷派の旗手であった姉小路公知(きんひさ)が暗殺された朔平門外の変が起こった。今年は、ちょうど160年の節目にあたる。この事件は、天誅(天に代わって罰を与えること)として理解されているが、際立った特異性を持っている。
天誅の対象は、農民、目明し、寺侍、町役人、儒者、公家諸大夫・家司・雑掌等であり、非常に多岐に及んでいる。その中で、唯一堂上にその刃が向けられたのが朔平門外の変であったのだ。姉小路は、即時攘夷派の首領であり、本来はその対象から最も遠い存在である。その影響力から見て、江戸・武家側で起こった井伊直弼暗殺(桜田門外の変)と対称をなす中央・公家側における最大の謀略事件としても過言ではなかろう。
今回は5回にわたって、朔平門外の変について深掘りし、なぜ姉小路公知は暗殺されなければいけなかったのか、その実相に迫りながら、幕末維新史におけるその意義について、考察を深めてみたい。
文久2年(1862)から3年の政治動向
最初に、朔平門外の変が起こった当時の政治状況を確認しておこう。即時攘夷に藩論を転換した長州藩(周布政之助・桂小五郎・久坂玄瑞)が土佐藩(勤王党・武市半平太)とともに中央政局を席巻していた。文久2年10月、両藩の国事周旋活動は、幕府に攘夷実行を迫る攘夷別勅使(正使三条実美・副使姉小路公知)の派遣に結実した。
12月5日、第14代将軍徳川家茂は勅使に対し、国是として攘夷を奉答した。しかも、至急の上洛の上、攘夷実行の方策を奏聞することを誓約したのだ。家茂は翌文久3年3月4日に上洛し、孝明天皇に拝謁して、大政委任を奏上した。天皇自身はそれを容認したものの、即時攘夷派に与する関白鷹司輔煕は征夷大将軍のみを容認し、国事は直接諸藩へ沙汰するとの勅書を下した。つまり、大政委任は事実上、否定されたのだ。将軍の役割は国政全般ではなく、攘夷実行に限定されたことになる。
攘夷実行について、その期限や策略については、幕府(家茂)からは具体的な奏聞はなかった。これ以降、朝廷・幕府それぞれから命令が発せられる、いわゆる政令二途(朝廷「無二念打払令」、幕府「襲来打払令」)が先鋭化して、諸藩を悩ませ中央政局を混乱に陥れた。
朝廷が攘夷実行の期日を執拗に迫ったため、幕府はとうとう5月10日と布告した。久坂らは一斉に長州藩に帰国し、10日にアメリカ商船、23日にフランス艦船、26日にオランダ艦船を砲撃した。不意打ちであったため、緒戦では大きな戦果を挙げたが、米仏軍艦による用意周到な報復攻撃(6月1・5日)によって、壬戊丸など、長州藩の軍艦はすべて大破してしまい、海軍は全滅して早くも制海権を喪失した。このような目まぐるしく展開する政治状況の中で、勃発したのが朔平門外の変であったのだ。