幕張新都心 写真提供/公益社団法人千葉県観光物産協会

(町田 明広:歴史学者)

◉千葉県の誕生150年―廃藩置県と房総の特殊事情①

維新後に転封された諸藩

 千葉県が誕生してから、2023年は150年の節目である。前回は明治維新前後の房総の状況を、府藩県三治制によって誕生した宮谷(みやざく)県、葛飾県を中心に述べたが、その他に25藩が存在していた。その中には、明治維新後に移動させられた諸藩も含まれる。まずは、その事情を確認しておこう。

 江戸幕府の瓦解後、15代将車徳川慶喜が隠居し、後継者の徳川家達は府中(静岡)藩70万石を立藩した。徳川宗家(旧将軍家)は、一大名家の立場に転落したことになる。その影響を受けて、玉突きのように移動を余儀なくされた駿河・遠江両国内(現静岡県)の7藩は、旧幕府領が多く分布し、代替地の取得が容易な房総地方へ転封させられたのだ。この処置は、各藩自らの意思でなく、新政府による強制的な施策の一環であった。

 その他、明治以降に房総に転封された藩としては、下野国(現栃木県)高徳から曽我野藩、羽前国(現山形県)長瀞から大網藩がある。明治3年(1870)末の時点で、房総に25藩(飛地を除く)が存在していたことになり、その他に宮谷県、葛飾県が存在するなど、全国でも例を見ない極めて入り組んだ複雑な様相を呈していたのだ。

版籍奉還の実現

千葉県ホームページより、令和元年5月1日現在の54市町村(37市16町1村)を表したマップ

 府藩県三治制により、藩も府県と並ぶ明治新政府の地方行政機関の位置付けを与えられていた。しかし、府県と相違して新政府の人事権は及ばず、依然として封建的領土である藩主(諸候)を頂点にいただく、半独立国のような状況は不変であった。

 明治2年(1869)1月、新政府の中核的存在である長州・薩摩・肥前・土佐の4藩主が連名で、土地(版)と人民(籍)を朝廷・天皇に返上する旨を奏上した。それを契機に、全国の諸藩が続々とこれに追随したのだ。

 ところで、諸藩主の思惑はどのようなものであったのだろうか。幕府に代わって、新政府から支配継続の承認を獲得する期待があったことは間違いない。しかし、より一層大きな理由は、戊辰戦争の負担や財政の悪化による借金を、新政府が肩代わりする期待があったからに他ならない。

 同年6月、新政府がこれらの申し出を聞き届ける形で、「版籍奉還」が実現した。各藩主は、改めて「知藩事」に任命され、これ以降は知藩事の家禄は藩財政から切り離され、藩の実収石高の10分の1に限定となり、しかも藩士と藩士間の主従関係も否定したのだ。

 しかし、その実態は旧態依然の状態が継続する場合が多数存在しており、明治政府の意向が届きにくい存在のままであった。