(町田 明広:歴史学者)
複雑に領地が入り組んだ房総(安房・上総・下総)
2023年は、千葉県が誕生してから150年目である。千葉県は明治6年(1873)に誕生しており、明治4年(1871)に断行された廃藩置県から遅れること2年である。実は、それには事情がある。
そもそも、千葉県領域は房総と呼称され、安房国・上総国・下総国から成り立っていた。その房総は、様々な領地がモザイク状に入り組んでおり、非常にまとまりがなく、全国でも希有な地域であったのだ。
今回は、千葉県の誕生史をひも解き、明治維新を迎えた段階での房総の実態から、廃藩置県前後の房総の変遷を明らかにし、どのようにして千葉県が成立したのかを、2回にわたって追ってみたい。
明治維新と房総
江戸時代の房総であるが、江戸から至近であるという地理的な条件から、江戸幕府(徳川家)の直轄地や旗本領(知行地)が多数存在し、その上、藩領も複雑に配置されていた。幕末には、佐倉藩・大多喜藩・館山藩など17の藩が存在していた。
なお、明治元年(1868)に請西(じょうざい)藩は廃止されているが、その事情を説明しておきたい。そもそも請西藩とは、上総国望陀 (もうだ) 郡貝淵村(今の木更津市)に陣屋を置いた譜代小藩である。初代藩主の林忠英 (ただふさ)が側衆から昇進し、文政8年(1825)に若年寄となり、加増を受けて1万石を領し大名となったのだ。
嘉永3年(1850)、2代藩主の忠旭 (ただあきら)は陣屋を同郡請西村に移し、請西藩と改称した。幕末に至り、最後の藩主忠崇 (ただたか) は戊辰戦争において、房総諸藩のうちでただ一つ、官軍に抗戦して小田原、会津、仙台などに転戦した。しかし、降伏して領地没収されて廃藩となった。
また、明治元年に駿河や遠江(現在の静岡県)から房総に領地を移された鶴舞藩・長尾藩などの7藩と、その他から移された曽我野藩・大網藩が加わり、房総には25藩が存在することになった。様々な領地が入り組んで、極めて複雑な様相を呈したのだ。