京都御所 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

◉朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義①

朔平門外の変直後の朝廷の対応

 文久3年(1863)5月20日、朔平門外の変が勃発し、姉小路公知が暗殺された。翌21日、朝廷は将軍徳川家茂および京都守護職松平容保に厳重な刺客探索を、また、土佐藩(清和院門)・水戸藩(蛤門)・薩摩藩(乾門)・岡山藩(今出川門)・徳島藩(石薬師門)・長州藩(堺町門)・肥後藩(寺町門)・仙台藩(下立賣門)・鳥取藩(中立賣門)に兵の配備と厳重な非常警備の朝命を下したのだ。

松平容保

 5月22日、朝廷は米沢藩主上杉斉憲・和歌山藩主徳川茂承・岩国藩主吉川経幹にも厳重に刺客を探索せよとの朝命を下したが、将軍からも諸藩に同様の命令が沙汰された。25日、議奏・武家伝奏および国事御用掛・参政・寄人といった朝廷の要人護衛の朝命も発せられ、さらに、27日、松平容保・京都所司代牧野忠恭(唐門前・清所門前および准后殿門前)、広島藩世子浅野茂勲(南門前)・米沢藩主上杉斉憲(建春門前)・中津藩主奥平昌服(朔平門前)・小松藩主一柳頼紹(猿ガ辻通)に対し、要所警備の朝命も下された。

 このように、朝廷は即時に過剰なまでの対応をしていることは特筆すべきことである。朔平門外の変が中央政局において、特に初めて刃が向けられた公家社会で、甚だしい衝撃と深刻な動揺が惹起していたことがうかがえよう。

事変後の朝廷対応と薩摩藩への嫌疑

 文久3年5月26日、武家伝奏坊城利克から姉小路公知暗殺の嫌疑により、会津藩に東洞院蛸薬師にある薩摩藩陪臣田中親兵衛の寓居捜索の朝命が下った。そもそも、それを突き止めたのは、天誅組の乱を引き起こす土佐藩士の吉村寅太郎であった。なお、この命令は三条実美からも発せられたと、会津藩公用方の広澤安任はその手記『鞅掌録』に記載している。

吉村寅太郎

 会津藩は、田中および薩摩藩士仁礼源之丞とその下僕の太郎を捕縛し、坊城家へ連行したところ、藩邸での拘留を命じられた。公用人の外島機兵衛はこれを拒否し、町奉行永井尚志に勾留を命じた。町奉行所に拘留された田中は、なんと隙を見て、同所で自殺するという驚くべき事態に発展した。

 そもそも、薩摩藩をはばかって、田中を縄で縛りあげていなかったため、ある程度行動が自由であったのだ。また、仁礼は広島藩主浅野茂長、太郎は米沢藩主上杉斉憲が拘禁したが、太郎はその後脱走し、行方知れずとなった。そのため、上杉は帰藩ができない事態となった。

 こうした情勢の中で、在京の薩摩藩士・本田弥右衛門は鹿児島の中山中左衛門・大久保利通宛書簡(5月27日付)の中で、薩摩藩の仕業と喧伝されており、なんとも苦心遺憾であり、心中を察して欲しいと訴えた。また、薩摩藩邸の人心は疑惑に苛まれ、いかんともしがたい情勢に打ちひしがれていると伝えた。あまりの驚天動地の展開であり、藩ぐるみの仕業と取られかねない状況に対し、在京藩士の焦りと悲痛な心情が垣間見える。