文久3年(1863)5月20日、朔平門外の変が勃発し、姉小路公知が暗殺された。翌21日、朝廷は将軍徳川家茂および京都守護職松平容保に厳重な刺客探索を、また、土佐藩(清和院門)・水戸藩(蛤門)・薩摩藩(乾門)・岡山藩(今出川門)・徳島藩(石薬師門)・長州藩(堺町門)・肥後藩(寺町門)・仙台藩(下立賣門)・鳥取藩(中立賣門)に兵の配備と厳重な非常警備の朝命を下したのだ。 5月22日、朝廷は米沢藩主上杉斉憲・和歌山藩主徳川茂承・岩国藩主吉川経幹にも厳重に刺客を探索せよとの朝命を下したが、将軍からも諸藩に同様の命令が沙汰された。25日、議奏・武家伝奏および国事御用掛・参政・寄人といった朝廷の要人護衛の
「朔平門外の変」直後の朝廷の対応と、嫌疑をかけられた薩摩藩の反応
幕末維新史探訪2023(33)朔平門外の変160年―姉小路公知暗殺の歴史的意義②
Premium会員登録のご案内
Premium会員の特典
- プレミアム限定の記事配信
- プレミアム専用記事レイアウト
- 印刷に最適な画面提供