(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、藤原京家の官人、藤原貞敏です。
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当初から質量ともに弱体だった京家
藤原京家の官人を扱うのも久しぶりである。『日本三代実録』巻十四の貞観(じょうがん)九年(八六七)十月四日己巳条は、貞敏(さだとし)の卒伝を載せている。
従五位上行掃部頭藤原朝臣貞敏が卒去した。貞敏は、刑部卿従三位継彦(つぐひこ)の第六子である。若くして音楽を耽愛し、好んで琴を鼓すことを学んだ。もっとも琵琶を弾くことを善くした。
承和(じょうわ)二年、美作掾と遣唐使准判官となり、承和五年に大唐に到って、上都(長安)に達した。よく琵琶を弾く者である劉二郎(りゅうにろう)に逢い、貞敏は砂金二百両を贈った。劉二郎が云ったことには、「礼は往来を貴しとする。請う、相伝えることを」と。そこで二、三調を授け、二、三箇月の間に、ことごとく妙曲を伝え終わった。
劉二郎は譜数十巻を贈り、そして問うて云ったことには、「君の師は誰であるか。元から妙曲を学んだのか」と。貞敏が云ったことには、「これは我が累代の家風であって、まったく他の師はいません」と。劉二郎が云ったことには、「ああ、昔、謝鎮西(しゃちんぜい/謝尚[しょう])の故事を聞いた。これは何という人であろうか。僕に一人の少女がいる。願わくは枕席に薦めさせよ」と。貞敏が云ったことには、「一言はこれは重く、千金はかえって軽い」と。既に婚礼を挙げた。劉の娘はもっとも琴箏を善くし、貞敏は新声数曲を習得した。
翌年、遣唐使の聘礼が既に終わり、纜を解いて帰国した。別れに臨んで劉二郎は送別の宴席を設け、紫檀と紫藤の琵琶各一面を贈った。この歳は、大唐の大中(だいちゅう)元年、本朝の承和六年である。
承和七年、参河介となった。承和八年、主殿助に遷任された。しばらくして雅楽助に遷任された。承和九年春に従五位下を授けられ、数年で雅楽頭に転任した。
斉衡(さいこう)三年、備前介を兼任した。明年の春、従五位上を加授された。天安(てんあん)二年、母の喪に遭って解官されたが、服喪が終わって、掃部頭に拝任された。貞観六年、備中介を兼任した。卒去した時、行年六十一歳。貞敏は他に才芸はなかったが、能く琵琶を弾くことで三代の天皇に仕え、殊寵はなかったとはいっても、声望はやや高かった。
藤原京家の勢力は、当初から質量ともにきわめて弱体であった。それでも子孫は細々と生き残り、大継(おおつぐ)の女の河子(かし)は桓武(かんむ)天皇の後宮に入り、仲野(なかの)親王を産み、仲野親王の女に、光孝(こうこう)天皇女御で宇多天皇の母となった班子(はんし)女王がいる。それでも家の興隆には結び付かなかった。
ただし、『令義解』撰者となった雄敏(おとし)、琵琶の祖となったこの貞敏、和歌の興風(おきかぜ)、和歌・舞楽の忠房(ただふさ)など、平安文化の興隆に特異な光芒を放った人物を輩出している。これも政治よりも文芸に励んだ祖である麻呂(まろ)の遺徳と称すべきであろう。
貞敏は継彦の第六子として、大同(だいどう)二年(八〇七)に生まれた。生母は不明。若年時から音楽に通じ、琵琶を弾くことが得意であった。承和二年(八三五)に美作掾と遣唐使准判官となり、承和五年(八三八)に長安に到った。いわゆる「最後の遣唐使」に参加できたのは、幸いであった。
長安で劉二郎に逢い、砂金二百両を贈ってこれに師事した。一説には廉承武(れんしょうぶ)から揚州の開元寺で教えを受けたともいう(伏見宮本『琵琶譜』)。劉二郎は二、三箇月の間に「流泉」「啄木」「楊真操」などの秘曲をすべて伝えた。劉二郎から師の名を聞かれ、我が家の家風であって、師はいないと聞くと劉二郎は感激し、自分の娘を貞敏と婚姻させた。この娘も琴箏の名人で、貞敏はこの妻からも数曲を習得した。
翌承和六年(八三九)、遣唐使は帰国することになり、貞敏もこれに従った。劉二郎は送別の宴席を設け、紫檀と紫藤の琵琶各一面(玄上と青山)を贈ったという。この玄上や青山をめぐる説話も、後世、多く作られている。また、この時に伝授された琵琶の調絃法と絃合を列記した『琵琶諸調子品』一巻(平安末写)が宮内庁書陵部に伝存する(『国史大辞典』『平安時代史事典』による。蒲生美津子氏執筆)。
それはさておき、あの妻はどうなったのであろうかと、他人事ながら心配になってくる。
帰国後、紫宸殿の仁明(にんみょう)天皇の御前で琵琶を演奏している。承和七年(八四〇)に参河介に任じられ、翌承和八年(八四一)に主殿助、また雅楽助に遷任された。ようやくその特技を生かす官に就いたことになる。承和九年(八四二)
とはいえ現代とは異なり、芸術がその地位や収入につながるわけではなかった。貞敏は斉衡三年(八五六)に五十歳でやっと備前介を兼任し、天安元年(八五七)に従五位上に授された。翌天安二年(八五八)に母の喪に遭って解官され、喪が明けて掃部頭に任じられた。貞観六年(八六四)に備中介を兼任している。
卒去した時も、官位はそのままで、結局官人としては出世できずに終わってしまった。
これも京家の官人に共通する特徴である。卒伝は、「貞敏は他に才芸はなかったが、よく琵琶を弾くことで三代の天皇(仁明・文徳[もんとく]・清和[せいわ])に仕え、格別な寵遇はなかったとはいっても、声望はやや高かった」と締めくくっている。
現代でも得意分野と仕事が一致する人は稀であるが(大学教員も自分の専門分野を教えることのできる人は稀である)、それでも特技を仕事とすることのできた稀有なる幸福な一生であったと言えよう。