島津斉彬

(町田 明広:歴史学者)

傑出した存在、島津斉彬の凄さ

 幕末期には、おおよそ260ほどの藩が存在し、そのトップに大名が据わっていた。江戸時代を通じれば、その何倍もの大名がいたことになるが、歴史に名を残して、今なお語り継がれている存在となると、極端に少数になってしまう。その中でも、ずば抜けた存在こそ、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬なのだ。

 斉彬の聡明・英邁さが広く流布していた証拠をお目にかけよう。世子時代の近臣である山口定救(さだすけ)の記録「覚えの為書き留め置く也他言無用の事」によると、「文政12年(1829)、公(斉彬)が20歳の時、江戸城内では、幕府の役人や登城の諸侯が、兵庫頭殿(斉彬)は大名にしておくには惜しい人だ。公を小身の大名にして幕府の老中にして、幕政を担当させたい」と語り合っていた。山口は、誠に名誉な事で感激のあまり、胸が一杯になったと述懐している。そして、藩主になると「三百諸侯英才随一」と喧伝されたのだ。

 また、安政5年(1858)3月、オランダ人医務官ポンペは長崎海軍伝習所時代の勝海舟らと鹿児島を訪問し、斉彬に面会した。「恐らく、侯(斉彬)は、日本でもっとも重要な人物であった。その将軍に及ぼす影響力からいっても、また自己の実力をもってしても、またその指導力からいっても、日本の革新的存在と見られていた」(「ポンペ日本滞在見聞記」)と、斉彬を極めて高く評価した。

ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト

 さらに、ポンペは「この藩は、国運隆盛となるものを増進し、また自力で技術研究に専念する名君(斉彬)のもとにおいて、燦然たる彼岸に到達するであろうこと、また情勢が変って政治的安定が得られた場合、ヨーロッパ人といっそう自由に交流できるようになれば、この藩はまもなく日本全国のうちで最も繁栄し、またもっとも強力な藩になることは間違いないということである。この予言はすでに実現しつつある」と述べる。斉彬の下で、薩摩藩が殖産興業・富国強兵化を果たし、国際化に成功して日本で最も繁栄した藩になると予言している。

 今回は、政治家、行政家、軍事指導者、経済家、企業家、教育者、科学者として、いずれの分野においても一流の位置を占める島津斉彬の生涯と、その存在が多大な影響を与えた幕末政治史を7回にわたって紐解いていこう。