島津斉興と調所広郷

 重豪の隠居後、9代藩主斉宣(斉彬の祖父)は樺山主税・秩父太郎らを抜擢し、藩政改革にまい進した。その改革は、重豪の政策を否定するものであったので、文化朋党事件(近思録崩れ)を引き起こした。

島津斉宣 ジェネスト, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 この事件は、斉宣による改革に激怒した重豪が、文化5年(1808)に樺山らを切腹させ、翌6年6月に斉宣を隠居に追い込み、孫に当たる斉興(19歳)を10代藩主に擁立したお家騒動である。これは、斉彬誕生の3ケ月前の事件であった。重豪は斉興の後見役として、藩政を補佐した。

 これ以降、重豪も斉宣同様に、やはり倹約を命じたものの、さらに経済状況は悪化して、負債は増加を続けた。そして、文政12年(1829)の負債額は500万両に上った。これは、薩摩藩の年間収入の約35倍にもあたる額であり、返済は到底不可能と思われるレベルであった。

 ここで、重豪は調所広郷の登用に踏み切る。調所は城下士最下級の御小姓与の出身であり、茶道坊主・御小納戸など歴任し、琉球口貿易を担当して利益増大に貢献した。そのため、文政11年(1828)に重豪は調所を財政改革主任に大抜擢した。調所は大坂商人を巧みに説得し、資金調達に成功し、重豪没後も斉興に厚く信頼されて改革を続行したのだ。

調所広郷

 調所は黒糖・薬用植物など特産品の品質向上・販売方法を改善し、琉球での貿易およびそれを隠れみのとした抜け荷の拡大に成功した。さらに、無謀とも言える500万両に達した負債の250年賦・無利子返済を大坂商人に強要するなど、多角的な手段を次々に実行にうつして、藩財政の復興を計った。

 その大成功によって、薩摩藩は債務国から豊かな債権国に変身した。弘化元年(1844)、重豪が命じた50万両の備蓄も達成し、天保9年(1838)には、調所は異数の昇進を遂げて家老に抜擢され、藩政全般に関与したのだ。

 次回は、アヘン戦争による日本への衝撃および風雲急を告げる海外情勢と琉球問題について概観し、斉彬の対外政略とはどのようなものであったのか、その実相を詳しく見ていこう。