斉彬の生い立ちと重豪の存在

 文化6年(1809)9月28日、10代藩主の島津斉興の嫡男として、斉彬は江戸の芝藩邸で生まれ、幼名は邦丸と称した。文政4年(1821)、13歳で元服し、又三郎忠方と改名した。同7年(1824)、16歳で従四位下・侍従に推叙され、11代将軍徳川家斉から「斉」の一字を賜って、斉彬と改名したのだ。

島津斉興 ジェネスト, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 母は鳥取藩主池田治道の娘弥姫(いよひめ、周子・賢章院)であり、弥姫の生母(斉彬の祖母)は仙台藩主伊達重村の娘生姫である。つまり、斉彬は独眼竜・政宗の末裔にあたる。弥姫は非常に教育熱心で乳母を置かず、一切の養育を自分自身で行っており、当時としては極めて珍しいケースである。

 斉彬が6、7歳になると、将来は薩摩藩という大藩の藩主になる身として、厳しく教育を施された。漢籍の素読はもちろんのこと、書や絵画、そして和歌などを、弥姫自ら教えるという熱心さであった。斉彬の物事に対する冷静な判断力、人々に対する深い思いやり、出身藩や身分に関係なく人材を登用・育成した度量の深さなどは、母弥姫の教育に起因するところも多いのではなかろうか。なお、弥姫は文政7年に34歳の若さで亡くなっている。

 ところで、斉彬に大きな影響を与えた曾祖父であり8代藩主の重豪を紹介しておこう。娘の茂姫(広大院)が11代将軍家斉の御台所(正室)となる僥倖を得て、「高輪下馬将軍」と称されるほどの権勢を振るった。その重豪は、斉彬を殊の外に可愛がった。

島津重豪

「蘭癖大名」の代表とされ、ローマ字を書き、中国語とオランダ語を多少なりとも理解できたというから驚きである。重豪の蘭学に対する造詣の深さが、斉彬の世界観の形成に多大な影響を与えたことは間違いなかろう。一方で、将軍岳父としての権勢を誇り、かつ儀礼を尽くし、また開明的政策を次々と打ち出したため、重豪時代には莫大な支出を余儀なくされた。こうして、薩摩藩の財政は一層、危機的な状況に陥ったのだ。