学問から行動へ─「文武指南所」の誕生
安政元年(1854)、24歳の清河は幕府の最高学府である昌平黌に入学するも失望し、自らの塾を開いた。火災で2度も焼失しながらも、安政6年(1859)に神田お玉ヶ池に3回目となる「文武指南所」を設けた。そこには、山岡鉄舟をはじめ、後の明治維新を担う若者たちが参集したのだ。
山岡鉄舟
しかし、清河はただの教師ではなかった。塾生に「志を立てよ」と説き、幕府の無力を鋭く批判した。その気迫は、時に危険思想として幕吏の目に映るほどだった。そのような最中、安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変が勃発し、大老井伊直弼が暗殺された。
井伊の死を契機として、30歳になった清河の尊王攘夷のあり方は、学問から離れて、断固とした行動へと向かわせたのだ。いよいよ、清河が時代に登場することになるのだ。
次回は、清河八郎による「虎尾の会」の結成、幕吏の無礼討ち事件に端を発する幕府の清河追及の顛末、さらに、清河の逃亡と義挙計画の実相について、詳細に追っていこう。




