諸国行脚とペリー来航の衝撃

嘉永6年(1853)7月14日、ペリー提督一行初上陸の図

 弘化4年、17歳の清河が江戸に出るところから話を始めよう。東条一堂塾で儒学・漢学を修めるかたわら、翌嘉永元年には最初の西遊に出かけた。江戸を出発して中山道を下り、北陸を経由して近畿に入り、最後は東海道を通って江戸に戻るという日本を半周するようなルートであった。

 具体的には、善光寺(長野)、越後(新潟)各地、金沢、福井、京都(御所、二条城、清水寺など名所・旧跡)、大坂、奈良(法隆寺、東大寺)、吉野、和歌山(高野山)、伊勢神宮、熱田神宮、箱根、小田原をめぐった。なお、弟の熊次郎が病死したため、清川に戻っている。

 嘉永2年(1849)、清河は清川にとどまり、家業を手伝った。嘉永3年(1850)には、京都、九州を遊歴して再び江戸に戻った。嘉永4年(1851)には、千葉周作の道場に入門し、また、東条一堂塾の塾頭を命じられるが辞退している。嘉永5年(1852)、安積艮斎塾に移る。また、北辰一刀流初目録を受ける。このころ、盟友となる安積五郎と出会っている。

 嘉永6年(1853)、ペリー来航時には浦賀で黒船を視察している。清河は、黒船来航を浦賀で目の当たりにし、列強の脅威を肌で感じたことから、異国の圧力を退け、天皇を中心とする国を立て直すことが彼の生涯を貫く信念となった。なお、その後帰郷し、酒田から蝦夷へ渡り、海防を視察している。