伝統装束をまとい、蹴鞠を奉納する下鴨神社の「蹴鞠初め」 写真/共同通信社
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる人生を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本後紀』『続日本後紀』所載分)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。
二百六度、蹴り続けた
三代御記のうち、次は『醍醐天皇御記(だいごてんのうぎょき)』である。『醍醐天皇御記』は、醍醐(だいご)天皇が記録した日記である。もともとは二十巻あり、内裏清涼殿の日記御厨子に保管されていたが、寛弘(かんこう)六年(一〇〇九)十月四日の一条院内裏の火災により、焼亡してしまった。
ただ、『西宮記』など約六〇種の書物に約五一〇条の逸文が引かれており、即位後まもない寛平(かんぴょう)九年(八九七)九月一日から死去前年の延長(えんちょう)七年(九二九)十月二十六日までの逸文が遺っている。
ここでは、延喜(えんぎ)五年(九〇五)三月二十日条(『西宮記』による)に記録された蹴鞠御覧の記事を見てみよう。
仁寿殿に出御した。殿上人及び藤原重之・坂上是則、帯刀長在原相如、帯刀榎井清郷を召して、蹴鞠を行なわせた。酒殿と内膳司の干物を召して、下給した。二百六度、揚げて堕さなかった。内蔵寮の絹を召して、これを下給した。
蹴鞠というのは、数人一組で輪を作り、一個の鞠を順次に足背で蹴り上げ、地に落とさぬようにして他に渡していく屋外遊戯である。平安時代に盛行し、中世以降は「蹴鞠の家」なども成立して、「後ろ蹴り」「廻し蹴り」などの「秘技」も開発された(どんな蹴り方なんだろう)。この日は醍醐天皇がみずから観覧している。
それにしても、二百六度、蹴り続けたというのは、おそるべき技量である。私も一度だけ伊勢の「いつきのみや歴史体験館」で蹴鞠をやってみたことがあるが、とても何度も続けて蹴られるものではなかった。しかも当時は、我々のような動きやすい服装ではないし、靴も私がやったときには硬い木沓に履き替えたものだから、それで二百六度というのは、驚嘆に値する。
なお、この年は蹴鞠の流行り年だったようで、同じ『醍醐天皇御記』によると、三月二十一日、五月八日、二十二日、二十三日にも内裏で蹴鞠が行なわれている。
まあ、醍醐天皇もまだ数えで二十一歳。本来なら遊びたい盛りだったであろうが、十三歳で即位して以来、日夜政務に励み、しかも父院の宇多(うだ)法皇は存命していて(醍醐天皇よりも後まで生きている)、何かと政治に口を出してくる。ということで、蹴鞠も一つの息抜きだったのであろう。
ここで名前が挙げられている藤原重之(ふじわらのしげゆき)は系譜不明。坂上是則(さかのうえのこれのり)は『平安貴族列伝』にも少し名前の出た渡来系・武官系氏族の出身で、歌人として有名な人物。『百人一首』にも「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれる白雪」の歌が入っている。生没年未詳だが、延長八年(九三〇)に死去したとする系図もある。
在原相如(ありはらのすけゆき)も系譜不明だが、榎井清郷(えのいのきよさと)は物部氏系の官人。蹴鞠の名手として名を残している(『平安時代史事典』による。木本好信氏執筆)。ただし、その根拠は本条のみであり、二百六度、蹴り続けたといっても、他のメンバーの協力あってこそなのだから、何となく不公平な感じが否めない。
帯刀長とか帯刀というのは、東宮の警護にあたる武官である。在原相如がそのトップで、榎井清郷はその下部の実働部隊なのであろう。
この延喜五年三月当時の東宮は、崇象(むねかた)親王(後に保明[やすあきら]親王と改名)で、延喜三年(九〇三)十一月二十日に生まれたばかりで、数えで三歳とはいっても、満年齢だと一歳四箇月である。延喜四年(九〇四)二月十日に生後二箇月あまりで立太子した。外戚(がいせき)である藤原時平(ときひら)や忠平(ただひら)に後見(こうけん)され、その地位も安泰であるかに見えたが、延長元年(九二三)三月二十一日に二十一歳で死去してしまった。
なお、直後の四月に続いて立太子した保明の子の慶頼(よしより)王(母は時平女の仁善子[にぜし])も、延長三年(九二五)六月に三歳(満二歳一箇月)で死去してしまった。醍醐天皇が宇多天皇の遺誡を守らずに菅原道真(みちざね)を大宰府に左遷し、現地で死なせてしまったことによって、その怨霊が云々された(『日本紀略[にほんきりゃく]』)。
その間、すごいことに、保明の生母の藤原穏子(おんし)が延長元年七月に第十四皇子寛明(ゆたあきら/後の朱雀[すざく]天皇)を産んだのである。実に穏子としては二十年ぶりの皇子出産であるが、もちろんこれは偶然ではない。時平はすでに延喜九年(九〇九)に死去していたが、後を継いだ忠平は、外戚の地位を確立するため、穏子所生の皇子を儲ける必要があったのである。
寛明親王は慶頼王が死去した直後の延長三年十月に立太子した。穏子は、延長四年(九二六)六月にも何と四十二歳で第十六皇子成明(なりあきら/後の村上[むらかみ]天皇)を産んでいる。この村上天皇の子孫が、今日まで皇統を継いでいくことになるのである。
在原相如や榎井清郷の運命も、保明親王や慶頼王の死後にどうなってしまったのか、残念ながら史料はまったく残っていない。







