神泉苑故地 写真/倉本 一宏
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本後紀』『続日本後紀』所載分)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。
京内の各地に行幸していた醍醐天皇
次は『醍醐天皇御記(だいごてんのうぎょき)』のなかでも、不可思議な話を紹介しよう。舞台は平安京の神泉苑(しんせんえん)と朱雀院(すざくいん)である。
醍醐天皇は、宇多(うだ)法皇が御所としている仁和寺(にんなじ)や宇多院(うだのいん)や亭子院(ていじのいん)、中六条院(なかのろくじょういん)、河原院(かわらのいん)などのほか、大内裏(だいだいり)内の大極殿(だいごくでん)や豊楽院(ぶらくいん)、中和院(ちゅうかいん)のほか、北野(きたの)、大堰(おおい)川、神泉苑、朱雀院など京内の各地にしばしば行幸を行なった。京外では、鴨(かも)川と大原野(おおはらの)に行幸を行なっている。
宇多に会いに行く朝覲(ちょうきん)行幸では、いつも儀礼や装束などうるさいことを言われるので、醍醐としても気が休まらないことだったであろうし、大極殿・豊楽院・中和院・鴨川は儀式のために行幸を行なったものである。しかし、その他の各地に遊覧や饗宴、狩猟を行なうための行幸の際には、気楽に羽を伸ばしていたことであろう。
なお、延長(えんちょう)六年(九二八)に行なわれた大原野行幸については、皇統の交替とからめて「『吏部王記(りほうおうき)』に見える大原野行幸と天皇の杜古墳」という小文を職場の広報誌に載せた。ネットでいつでも読めるので、ぜひご覧いただきたい。
延喜(えんぎ)八年(九〇八)五月二十八日条(『花鳥余情(かちょうよせい)』による)に醍醐天皇が記録した神泉苑行幸では、次のようなことが行なわれた。なお、神泉苑とは、天皇の私的な遊覧の場で、宮城の南、左京の二条・三条・大宮・壬生各大路に囲まれて八町の地を占めた、東西約二五二メートル、南北約五一六メートルという広大な敷地である。
神泉苑の西腋門(にしわきもん)から埒殿(らちどの)に御入(ぎょにゅう)した。左大臣(藤原時平[ときひら])が命じて、池の魚を捕えさせた。右衛門督(えもんのかみ)(藤原)清経(きよつね)朝臣が、捕った魚を捧げて、覧せ奉った。そこで御前で料理して、御膳に供した。余りは侍臣に下給した〈右衛門佐(えもんのすけ)(藤原)兼茂(かねもり)が、御膳を調備した。御厨子所(みずしどころ)の一、二人が、階(きざはし)の下で調備して、臣下に下給した。〉。
神泉苑の西腋門というから、現在の二条城の南西の隅の堀端、押小路通に「神泉苑西端線」という石碑が建っているあたりから神泉苑に入って、埒殿という建物で饗宴が開かれたようである。目の前には広大な池が見えたはずである。京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館の作成した「神泉苑復元想定図」によると、当時の池の大きさは、東西が約二〇〇メートル弱、南北が約二〇〇メートル強という広大なものであった。
池を見ながら宴会となると、なかなか風情のあるものだったであろうが、延喜八年五月二十八日というと、現在の暦では六月二十九日で、もう梅雨は明けていたのであろうか。
その時、左大臣の時平が、何を思ったか、池の魚を捕るよう命じた。ちょっと余興が過ぎるようにも思えるのだが、この年は三十八歳。菅原道真(みちざね)も七年前に追放して、得意の絶頂にある頃だったことであろう。なお、魚が棲息するには、池もそれなりの深さが必要とのことである。
誰がどのように取ったのかはわからないが、右衛門督の藤原清経が、捕った魚を捧げて、醍醐天皇に覧せた。醍醐の方はこの年、二十四歳。こんなことも楽しい年齢だったことであろう。
この清経というのは、藤原長良の六男で、参議も兼ねていた。この年、すでに六十三歳。当時としては老人である。醍醐に覧せる大役を引き受けたのだが、もしかすると参列していた公卿の中で最年長だったのかもしれない。
と、ここまではまだ理解できるのだが、なんとそれを醍醐の御前で料理して、御膳に供し、余りは侍臣に下給したというのである。魚は鯉か鮒であろうが、長い間、淀んだ池で飼われていた魚を食べて美味しいのだろうかと、不思議である。右衛門佐の藤原兼茂が醍醐の御膳を準備し、御厨子所(天皇の朝夕の御膳を供進し、節会などの酒肴を出した令外の官)が調理したという。
この兼茂というのは藤原北家良門(よしかど)流で、藤原利基(としもと)の四男。年齢は不詳。後に参議まで上る。それにしても、清経も兼茂も、北家の中では主流から微妙に外れた門流の官人で、こういった行動も、そのなさるわざなのであろうか。
まあ、御厨子所の官人を連れて行幸を行なったのであるから、最初から捕った魚を調理して食べる予定だったのかもしれない。もしかすると、この日のために食用の魚を放流していた可能性も考えられる。
同様の例は、十年後の延喜十八年(九一八)二月二十日にも見られる。これも『醍醐天皇御記』(『花鳥余情』『江家次第(ごうけしだい)』による)に、次のように見える。
神泉苑の東門を入り、馬埒に到って、御輿(みこし)を下りた。・・・神泉苑の室礼(しつらい)は、六月六日と同じであった。・・・この間、左衛門府(さえもんふ)の官人が、網で池の魚を捕った。御厨子所に送って、調理して供した。また、南の屛幔(びょうまん)の下に於いて、侍臣たちに調理して給わった。酉一剋に及んで、競馬(くらべうま)を行なった。
こちらは魚を捕ったのが左衛門府の官人であることを明記しているが、捕った魚を醍醐天皇に覧せた人などは記されていない。この時も御厨子所が調理し、侍臣たちに給わったとある。
なお、延喜十八年二月二十日は現在の暦で四月三日。そろそろ暖かくなり、桜も咲いていたことであろう。あれから十年、醍醐もかつての遊興を思い出して、久々に神泉苑の魚を食べたのであろうか、それとも日記に残されていないだけで、しばしばこのようなことを行なっていたのであろうか。
実はこの延喜十八年の十月八日、今度は朱雀院に行幸した際に、同様のことを行なっている。『醍醐天皇御記』(『花鳥余情』『西宮記(さいきゅうき)』による)に、次のように記している。
朱雀院に行幸した。造作及び御馬を覧る為である。馬埒に到った。・・・次いで柏殿(かえどの)に移った。・・・王卿は殿を下り、右京職(うきょうしき)の御贄(みにえ)を持って〈侍従大夫(じじゅうのたいふ)と右京職の官人が、同じくこれを持った。〉、庭中(ていちゅう)に立った。覧じ終わって膳部を召し、下給した。・・・左衛門督(さえもんのかみ)藤原朝臣(定方[さだかた])が、魚を捕えることを請うた。「申請によるように」と。左右衛門府(えもんふ)の官人が、門部(かどべ)を率い、網を舁かせて参入した。網を前の池に施して、鯉と鮒十余喉(こう)を捕え、御前に於いて調理して供した。また、東砌(ひがしのみぎり)の下に於いて調理し、侍臣に給わった。
朱雀院は退位後の天皇が御在所とする累代(るいだい)の後院(ごいん)で、南北を三条(さんじょう)大路と四条(しじょう)大路、東西を朱雀(すざく)大路(現在の千本通)と皇嘉門(こうかもん)大路(現在の七本松[しちほんまつ]通)によって画された八町の広大な敷地を持つ。殿舎の結構は寝殿と栢梁殿を中心とする二群から成り、南の築山との間の苑池には二つの中島を配し、東の馬場との間に島町(釣殿的性格)を構えるなど一般の寝殿造とは様相を異にしていた。
朱雀院故地(福田寺「尼ヶ池」)
現京都市中京区壬生天池町の福田寺(ふくでんじ)にある「尼ヶ池(あまがいけ)」が朱雀院の遺構と伝える。壬生寺(みぶでら)で行なわれる壬生狂言(みぶきょうげん)「桶取(おけとり)」の舞台となった池である。
朱雀院には、有限会社京都平安文化財の作成した「朱雀院復元想定図」によると、南池と東池があり、そのうち大きな方の南池は東西が約八〇メートル、南北が約六五メートルという、これも広大なものであった。
この時は、右京職の献上した御贄を持って行って、これを皆に食べさせたようであるが、宴もたけなわになった頃であろう、左衛門督の藤原定方が、魚を捕ることを請うてきた。醍醐は「申請によるように」と許可し、左右衛門府の官人が門部を率い、網を前の池に施して、鯉と鮒十余匹を捕えた。また御前に於いて調理して供し、また東砌の下に於いて調理し、侍臣に給わったとある。この時には魚の種類が判明する。
醍醐天皇をそそのかした定方は、この年、四十六歳。醍醐の外舅である。後に右大臣にまで出世し、三条に大西殿・中西殿・山井殿と三つの邸第を並べて、「三条右大臣」と呼ばれた。勧修寺流の祖で、紫式部(むらさきしきぶ)と結婚した藤原宣孝(のぶたか)の曾祖父にあたる。
まあ、外戚の気安さで、このようなことも言ったのであろう。仁明―文徳―清和―陽成と直系で続いた天皇家の嫡流から、光孝―宇多―醍醐へと交替しそうな新たな天皇家の嫡流に属する定方なればこそ、このような気分になったのであろう。それは皇統の交替によって藤原氏の嫡流も外れてしまった清経や兼茂とは対照的な言動である。
しかしそれにしても、羽を伸ばしに行幸するといっても、せいぜい今なら歩いて行ける範囲しか移動できないのであるから、天皇というのも窮屈な立場だなあと、いつも気の毒になってくる。









