女性の素性や死因が問題ではなく…

 それはさておき、今回、特に紹介したいのは、この翌月に懐忠がしでかしたとんでもない事件についてである。『村上天皇御記』康保三年閏八月十一日条(『西宮記』による)には、次のような事件が記録されている。何度も言うようだが、時の天皇に記録されたのである。

左近少将懐忠が申させて云ったことには、「私宅にいた下女が、すでに死にました。事情を知らない間に、従者の男が直廬に来て、着しました。その後、その告げを聞いて、まずは事情を奏上させます」と。すぐに命じたことには、「確かにその女が死んだ時剋を尋ね問うて、申させよ」と。懐忠が申させて云ったことには、「この女は、宵の口のころ、私と相語らって寝た後、持病があったことを知らず、朝、起きてくるのが遅かったので、揺り起こしたところ、初めて死去していたことを知りました。従者の男が参って来たのは、人が未だ起きない以前のことでした。ですからつまり、その死んだ時剋はわかりません」と。すぐに諸卿に命じて、穢とすべきか否かについて定め申させた。夜に入って、民部卿(藤原在衡[ありひら])が奏上させたことには、「天慶(てんぎょう)八年十月二十八日の外記日記に云ったことには、『宮内省に死児が置かれていた穢が有る。内裏に穢が入った疑いが有る。ところがその死人を置いた時剋はわからない。太政大臣(藤原忠平[ただひら])が申したことによって、神祇官にこれを卜させた。卜して云ったことには、「穢としてはならない」ということであった』と。この例に准じるべきでしょう」と。命じさせて云ったことには、「神祇官に卜し申させよ」と云うことだ。

 懐忠から、自宅の下女(いわゆる「召人」)と宵の口に「相語らって」いたが、共に寝た後、持病があったことを知らず、朝、目覚めると、死去していたことを知ったとのことであった。報告を受けた村上天皇は、死んだ時刻、つまり死穢の発生した時刻を問題にしたが、懐忠は、朝、起きたら死んでいたので、いつ死んだのかはわからないと答えた。

 そこで村上天皇は、これが穢になるかどうかを諸卿に議定させた。懐忠(甲穢)が穢に触れたまま内裏に参っていたら、内裏全体が穢に触れてしまい(乙穢)、政務や儀式を停止しなければならないからである。

 議定の結果、天慶八年(九四五)の例に准じて、神祇官に卜させるべきであるという意見が奏上され、それを承けた村上天皇は、卜占を命じたのである。

 翌十二日、神祇官が卜したところ、穢とすべからずとの結論に達し、それを承けて、村上天皇は、穢とすることもないことを命じている。これも『村上天皇御記』が記すところである。触穢に対しても極度に畏れていたわけではなく、平安時代の人々が臨機応変に対応していたことを示す事例である。

 懐忠にとっては、とんでもないことになったわけであるが、あくまで問題になったのは、この女性の素性や死因などではなく、これで内裏が触穢になるかどうかであった。

 なお、懐忠はその後もめでたく出世を続け、天禄(てんろく)三年(九七二)に三十八歳で右近衛中将、天元元年(九七八)に四十四歳で権左中弁、天元(てんげん)四年(九八一)に左中弁に任じられて弁官畑を累進し、一条(いちじょう)天皇の時代になった寛和(かんな)二年(九八六)に五十二歳で右大弁、翌永延(えいえん)元年(九八七)に左大弁と弁官のトップに立ち、永延二年(九八八)には五十四歳で蔵人頭に補された。

 普通、頭弁というのは中弁クラスの若手官僚が補されるのであるが、当時の平均寿命を超えたこの年齢での蔵人頭というのは、異例のことである。この時、一条天皇はまだ子供で、摂政の藤原兼家(かねいえ)が人事を決定していた。そして翌年の永祚(えいそ)元年(九八九)、左大弁は元のまま参議に任じられて公卿の仲間入りをし、位階も従三位に上った。若い頃の様々な不始末、南家の出身という出自から考えると、見事な出世ぶりである。

 藤原道隆(みちたか)政権になっても、正暦(しょうりゃく)五年(九九四)に六十歳で権中納言に昇進し、藤原道長政権になった長徳元年 (九九五)に六十一歳で中納言、長徳(ちょうとく)三年(九九七)に六十三歳で権大納言兼民部卿、長保(ちょうほう)三年(一〇〇一)に六十七歳で大納言と昇進している。長徳元年の疫病で公卿のほとんどが死去してしまって以降は、懐忠は長老として重んじられていたのであろう。

 しかし、さすがに寄る年波には勝てず、寛弘(かんこう)六年(一〇〇九)、七十五歳の年に大納言は辞したものの、民部卿は続けている。

 懐忠が死去したのは、それから何と十一年後、寛仁(かんにん)四年( 一〇二〇)のことであった。この時も民部卿とある(『小右記』)。時に八十六歳であった。

 若い頃の過ちは誰しもあるものであるが、それにもかかわらず出世を続け、長寿を得たというのは、考えてみれば大した人物である。

 なお、懐忠の子供としては、母の兄弟である尹忠(まさただ)の女から生まれた重尹(しげただ)が権中納言に上った以外は、公卿に任じられた者はいない。

『続 平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)