江戸城伏見櫓 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

慶喜の居城はどこか?

 前編(徳川家康の居城は「江戸城」ではなかった?徳川政権が「江戸幕府」になった経緯と本当の居城)では徳川家康の居城が江戸城ではない話を紹介した。

 江戸城に居なかったもう一人の徳川将軍は、第15代の慶喜である。正確にいうと、慶喜の居城は名目上は江戸城であったが、彼は「将軍」として江戸城に入ったことが一度もない。慶喜の生涯をたどってみよう。

 慶喜は、徳川御三家の一つである水戸徳川家に生まれた。実父は、攘夷論者の旗頭的存在で「烈公」と呼ばれた斉昭である。やがて慶喜は、御三卿の一つである一橋家を継ぎ、将軍継嗣問題に際して有力候補として名が上がるようになる。

江戸城の本丸。ここに巨大な御殿が建ち並んでいた

 とき既に幕末の動乱期に差しかかりつつあった。第13代将軍の家定・第14代家茂はともに病弱であったり、年若かったりと指導力を発揮できず、慶喜は文久2年(1862)には「将軍後見職」の立場に就く。この時期の慶喜は、もちろん江戸城に出入りしているが、あくまで一大名としての立場であり、本拠は江戸城外にある一橋屋敷だった。

 この頃、京都では諸勢力の思惑が複雑に入り乱れて謀略が渦巻いていたため、慶喜は「禁裏守衛総督」に任じられて京に赴き、元治元年(1864)の禁門の変では幕府軍を指揮して押し寄せた長州軍を撃退している。

京都御所の蛤御門。門扉や門柱に禁門の変の際の弾痕が残っている

 ここから2回にわたる長州征伐が始まるわけだが、第2次長州征伐で幕府軍が苦戦しているさなかの慶応2年(1866)、幕府軍の本営だった大坂城中で将軍の家茂が病死してしまう。京にあった慶喜は第15代の将軍に任じられたものの、翌年末には二条城において大政奉還を宣言する。

 将軍職を退いた慶喜は、京を辞して大坂城に移ったが、年明け早々に鳥羽伏見で「新政府軍(実態は薩長軍基幹)」との間に戦端が開かれて、幕府軍が敗退。慶喜は幕府軍を大坂城に残したまま、軍艦で江戸へと逃走し、いったんは江戸城に入る。

 しかし、ほどなく「新政府軍」が江戸に迫ったため、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、恭順に徹した。やがて、「新政府軍」の江戸入城と入れ替わりに水戸に移り、その後は新政府から駿河70万石の領地を認められて、駿府に居を移した。

谷中霊園にある慶喜墓所。慶喜はのちに爵位をえて晩年は東京で暮らした

 大坂から海路逃げ帰った慶喜が江戸城に入ったのは、慶応4年(1868)の1月12日。城を退いて寛永寺に入ったのが2月12日というから、その間わずかに一月。このときの慶喜は、徳川宗家の家督の座にはあったものの、すでに征夷大将軍は返上している。しかも、江戸城の本丸御殿は前年暮れに焼失していたから、慶喜は西の丸にしか入れなかった。

 つまり、慶喜は将軍として江戸城に在ったことは、一日たりともないのだ。政治的動向からしいていうなら、慶喜の居城は二条城だったことになる。

将軍としての慶喜の実質的な「居城」は二条城だったといってよい

 われわれが「江戸幕府」と認識している武家政権は、実際には京で生まれて京で終焉を迎えたのである。でも、そうであるからこそ逆に、この政権にとって本拠としての江戸城が、いかに決定的な意義を持ったかもわかるのだ。

 まず、徳川家は政治の重心を上方から江戸へと徐々に移し、大坂にあった豊臣家を滅ぼすことによって、権力を確立した。そののち権力の中枢は一貫して江戸城にあった。

 けれども幕末に至って幕府は、政治の重心が再び京に移る流れに付き合ってしまった。将軍が江戸城を出て京で新将軍を立て、権力が江戸城に帰って来られなくなったことによって、徳川政権は命脈を絶たれたのである。

江戸城の富士見櫓