江戸城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

権力の所在地は伏見城だった

 17世紀の初めから19世紀の後半に至るまで260年以上もの間、日本を支配した武家政権を、徳川幕府または江戸幕府と呼ぶ。その幕府の本拠、つまり将軍の居城となってきたのが江戸城である……と、普通は認識されている(筆者もこれまでそういう書き方をしてきた)。

 ところが、実は歴代15人の徳川将軍の中に、江戸城を居城としなかった者が2人いる。誰だか、わかりますか? 

 正解は、初代の家康と、最後(第15代)の慶喜だ。どういうことか、まずは御初代様から説明しよう。

江戸城本丸の高石垣。江戸初期の技法を残す貴重な遺構だ

 ご存じの通り家康は、もともとは東海地方の三河を本拠とする戦国大名で、のち豊臣秀吉の傘下に入り、天正18年(1590)に北条氏を滅ぼした後、関東を領するようになった。このとき家康は確かに江戸城に入り、徳川領の新たな本拠として城の改修に着手している。

 ただし、家康は豊臣政権の五大老であり、政権の本拠地は京や伏見であったから、いつまでも江戸に居るわけにはいかなかった。ほどなく上洛した家康は、その後は京・伏見や大坂に居ることが多く、朝鮮出兵が始まると秀吉に従って肥前名護屋に在陣している。

肥前名護屋城から見た徳川家康陣(画面中央の丘)。湾口を扼する位置に築かれている

 慶長3年(1598)に秀吉が没すると、家康は秀頼の後見として大坂城の西ノ丸に入る。同5年(1600)に上杉景勝が豊臣政権から離脱の動きを見せると、政権としてこれを討伐する軍を起こす。家康は諸将と大軍を率いて東に下り、江戸を経由して下野に至ったところで石田三成らが挙兵したとの報に接する。

 そこで家康は、率いていた諸将を西上させ(これが「東軍」の主力となる)、秀忠には下野方面の防備を固めた後に信濃を経由して西に向かうよう指示し、自らは江戸城にあって情報収集と外交活動に努めながら、情勢を観望していた。結果、美濃方面の戦局が動き始めたため、腰をあげて西に向かい、関ヶ原の決戦と相成るわけである。

岐阜城から西方を見る。西軍諸将が岐阜城を落としたことにより、美濃方面の戦局は一気に流動化した。画面左手奥あたりが関ヶ原

 この戦いは、元はといえば豊臣政権内での仲間割れであるから、戦後処理は当然、大坂城を中心として行われる。しかるのち、家康は伏見城を中心に政治活動を進め、慶長8年(1603)には朝廷から征夷大将軍に任じられた。この間、家康は一時的に江戸に帰ることはあったが、権力の所在地は伏見城だったといってよい。

伏見の桃山御陵。御陵奥の丘が伏見城(立入禁止)

 一方、家康の後継者である秀忠は江戸城に在って、関東における徳川家の支配を固めていたし、徳川家臣たちの多くも江戸に屋敷を構えていた。つまり、権力の本体である家康は伏見、それを支える兵力と経済基盤は江戸、という二重体制だったわけだ。

 結局、2年後の慶長10年(1605)、家康は秀忠に将軍職を譲り、ここに徳川政権は名実ともに「江戸幕府」となったわけだ。そして、家康本人は伏見と江戸を往復しながら駿府城の造営を進め、ほどなく駿府に居を定めるようになる。

駿府城。大御所となった家康は少年時代を過ごした駿府の地を晩年の居所に選んだ

 つまり、われわれが「江戸幕府」と呼んでいる徳川政権は、江戸ではなく京・伏見で誕生したのである。実際、この時期の徳川政権を「伏見幕府」と呼ぶべきだ、と唱える研究者もある。家康が「将軍」として江戸城に居た期間はごく短く、政治的な本拠は伏見であり、大御所となってからは駿府が居城であった。(後編へつづく