本能寺跡。明智光秀はここに織田信長を襲ったものの、焼け跡から信長の遺体は見つからなかった。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

◉ 中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63911
◉中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(中編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63912

相手を一発で仕留める秀吉のしたたかさ

(前回から)備中高松城を囲んでいる秀吉にとって最大の問題は、光秀の援軍や信長の本隊が、実際は何日に現着するのか、ということだ。それによって、前線での駆け引きの仕方が変わってくるからだ。

 もちろん、光秀も信長も随時連絡は入れてきただろう。だが、現場の状況は刻々変わる。知りたいのは、「何日着の予定」という努力目標的な見通しなどではなく、何日に何人の部隊が現着できるのか、というナマの情報だ。秀吉が、自分が上方にもっている人脈や情報網を駆使して、光秀と信長の動向をモニターしていたとても、何の不思議はない。

 そんなところに、光秀の密使が飛び込んできたのである。もちろん、この時点では、実際に何が起きたのかも、信長の安否も、未確認のままだ。そもそも密書なるものだって、何かの謀略かもしれない。

現在の本能寺は事件の現場から少し離れた場所にある。写真は境内に立つ信長の供養塔。 撮影/西股 総生

 しかし、仮に謀略だとしても、そんな怪文書が出回っている時点で、「何か」が起きているのである。それも、光秀と信長が関わる(あるいは巻き込まれる)ような「何か」が、上方で起きている。だとしたら、この時点で、少なくとも光秀の援軍が予定通りに現着する可能性は消滅した、と判断しなくてはならない。

 となれば、取りあえず戦線をペンディングさせて備前まで退こう、というのは作戦上の判断として当然ではないか。もちろん、停戦など持ちかければ、毛利方だって「織田方に何かあったな」と勘ぐるにちがいない。しかし、勘ぐったところで、本当は何が起きているかつかみかねるのは、毛利とて同じだ。そこへ、「城主一人の切腹と引き換えに城は解放する」という、相手が一発で飲める条件を出した秀吉の判断が、したたかなのだ。

備中高松城跡。秀吉軍は城を囲むようにバリケードや堤を築き、毛利軍と連絡ができないよう完全封鎖した。撮影/西股 総生

 われわれは、備中高松城水攻め→本能寺の変→中国大返し→山崎の合戦→秀吉の天下取りへ、という流れを歴史上の事実として知っている。しかしそれゆえに、つい結果から逆算して、物事を評価してしまいがちだ。本能寺の変を知った秀吉は、光秀を討って天下を取るべく中国大返しを決断した、と。

 しかし、本当のところはどうだったのだろう。秀吉は、信長の企図した決戦が不発になると踏んで、まず備前までの退却を決めた。その一方で、上方の状況を大至急、確認にかかったはずである。距離と時間から考えるなら、前線を撤収して備前まで後退するまでのどこかで、光秀の謀叛と信長の死を確認した、と見てよいだろう。

 信長が死んだとなれば、天下の行方いかんにかかわらず、織田帝国の空中分解は避けられない。だとしたら秀吉としては、まずは自力での生き残りを図らねばならない。ここは宇喜多を捨て石にしてでも、ただちに退却して全軍を姫路に集結させる、というのが正しい判断だ。光秀やら天下やらに、どう対応するかなどというのは、その先にある問題でしかない。

姫路城に残る秀吉時代の石垣。城は関ヶ原の合戦後に入った池田輝政によって現在見るような姿に整えられたが、部分的に秀吉時代の石垣も残っている。撮影/西股 総生

 何か想定外の突発事態が起きたら、まずは情報収集と事実確認につとめ、冷静に間違いのない判断を・・・などというのは、平和な人間の発想である。そんな悠長なことをいっていたら生き残れないのが、非常時であり、戦国乱世なのだ。

 情報不足で(ないしは情報が錯綜して)事実が確認できないからこそ、すばやく決断を下し、少しでも生き残る確率が高い方へ、ためらうことなく全力で動く。それが、乱世を生きる戦国武将たちの危機管理術だったのだ。