図1『伊達摸様廓寛濶』(五柳亭徳升著、文政十年)国立国会図書館蔵

(永井 義男:作家・歴史評論家)

江戸の常識は現代の非常識? 江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原などの性風俗まで豊富な知識をもつ作家・永井義男氏による、江戸の下半身事情を紹介する連載です。はたして江戸の男女はおおらかだったのか、破廉恥だったのか、検証していきます。

身請けに大金を吹っかけた楼主

 図1は、吉原の最高位の遊女である高尾太夫が身請けされるに際して、その金額を天秤で査定しているところである。なんと、高尾の体重と釣り合うだけの重さの小判が、その金額だった。もちろん、これは戯作の誇張と滑稽であり、事実ではない。

 公許の遊廓である吉原の遊女の年季は、「最長十年、二十七歳まで」と定められていた。いっぽう、岡場所などは、そもそもが非合法の遊里だから、なんの制限も受けない。岡場所などの遊女は吉原より過酷な年季を課されることもあった。

 さて、吉原や岡場所を問わず、年季中の遊女の身柄を客の男が金を払い、もらい受けることがあった。これが身請けである。ただし、多額の金がかかった。

 楼主は、その遊女が残りの年季で稼ぐであろう金額の補償を求め、ここぞとばかりに吹っかけたのである。

 とくに、吉原の人気のある花魁(おいらん)ともなると、楼主は足元を見て、高額を要求した。図1は、そんな状況を象徴していると言えようか。

 では、身請けには、いくらぐらいの金額が必要だったのだろうか。時代小説や古典落語などには、吉原の遊女の身請けの話があり、金額も語られるが、もちろんフィクションなのであまり信用できない。信用できる史料では、つぎのようなものがある。

 随筆『花街漫録』(西村藐庵著、文政八年)に、遊女薄雲が身請けされたときの証文が記載されている。それによると、「元禄十三年(一七〇〇)七月三日、金額三百五十両」だった。

 風聞集『藤岡屋日記』(藤岡屋由蔵編)には、次のような話が収録されている。

 弘化三年(一八四六)、ある男が吉原の遊女を身請けしようとして、妓楼の楼主に三百両で提示した。ところが、楼主は六百両を主張して譲らない。男はついに身請けを断念したという。

 当時の金額を現代の価格と比較するのは難しいが、単純に一両=十万円で換算すると、三百五十両は三千五百万円、六百両は六千万円になる。身請け、とくに吉原の遊女の身請けには莫大な金が必要だった。