鎌倉の源氏山公園に建つ源頼朝像。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉幕府はどのように成立したのか?

 東海・東山・北陸道諸国の源氏および武士たちに告ぐ。ただちに逆賊である清盛以下の平家一族を討て!

 平清盛・宗盛らは権勢にまかせて国土をかすめ取り、人々を苦しめているばかりか、後白河上皇を幽閉して廷臣らを次々と罪におとしいれ、財と領地をわがものにし、官位官職をもほしいままにしている。このままでは我が国はおしまいだ。そこで今、後白河上皇の第二皇子である自分は、かの天武天皇の故事にならって国を正すことにした。諸国の勇者たちよ、ともに立ち上がって平家一族を打倒しようではないか。功のあった者には恩賞を約束する。諸国よろしく承知し、宣によりて之を行え。(原漢文、大要を意訳)

『天子摂関御影』より平清盛像(Wikipediaより)

 治承(じしょう)4年(1180)の4月9日。後白河上皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)は、上のような令旨(りょうじ)を発した。令旨とは、皇位についていない皇太子や親王が発する命令書のことである。

 のちに鎌倉幕府の正史として編まれた『吾妻鏡(あづまかがみ)』という書物は、以仁王が挙兵を決意するシーンから筆を起こしている。鎌倉幕府成立の歴史は、この令旨から始まるのだ、と。

 このころ皇位は、後白河 → 二条(以仁王の兄)→ 六条(二条の子)→ 高倉(以仁王の弟)と継承されていた。これは、平家が権力を握る都合で決められたことだった。皇位が自分の前を素通りしたことに納得のいかない以仁王は、源頼政と語らって平家打倒を計画したのである。

『天子摂関御影』より後白河法皇像(Wikipediaより)

 源頼政は清和源氏ではあるが、頼朝らが属する河内源氏とは別の、摂津源氏という一族に属する。保元・平治の乱でたくみに立ち回った頼政は、平清盛から信頼されて従三位という高い地位を得て、文化人としても一目置かれていた。しかし、清盛の専横に我慢がならなかったのか、以仁王とともに挙兵を決意するにいたった。

源三位頼政像(Wikipediaより)

 令旨の文中で持ち出している天武天皇の故事とは、672年に起きた壬申の乱をさしている。すなわち、天智天皇の死後、その弟の大海人皇子と子の大友皇子とが争い、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。以仁王は、東国の兵を率いて戦った大海人=天武に自らをなぞらえているのだ。

『集古十種』より天武天皇像(Wikipediaより)

 以仁王の令旨は、同志たちによって、平家に反感を持つ諸国の武士たちに伝えられ、源頼朝や木曾義仲の挙兵をうながすこととなった。日本全国を巻き込んだ〝源平合戦〟から、鎌倉幕府の成立に至る動乱は、この一通の檄文から始まったのである。

武家の都・鎌倉を象徴する鶴岡八幡宮。撮影/西股 総生

「鎌倉殿への道」と題する本シリーズは、以後、今年の12月まで、治承4年(1180)の動向を、事件の起きた日ごとに追ってゆく。日本の歴史を大きく変えた、運命の治承4年を、840年前のリアルタイムとして追体験していただこう、というわけだ。

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 なお、日付は史料にしたがって旧暦を用いている。現在の太陽暦とは1か月ほどの差があるので、季節感が少々ズレる点はご了承いただきたい。(次回は4月27日掲載予定)