(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
全国にあるほとんどの天守は・・・
城歩きで最大の盛り上がりポイントといえば、天守。全国あちこちの城に建っている、さまざまな大きさ形の天守は、その城のシンボルでもある。とはいえ、江戸時代から残っている本物の天守は12棟しかないので、全国に建っているほとんどの天守は、復元天守、復興天守、模擬天守などと呼ばれるものだ。
このうち、写真や資料に基づいて復元されたものが復元天守だが、実際は鉄筋コンクリートで外観のみ復元したものがほとんど。しかも、詳しく見てゆくと、あちこち細部の考証が甘い場合が多い。一方、何となく〝それっぽいもの〟を勢いでエイッ、と建てちゃったのが復興天守。また、もともと天守がなかった場所に天守の形の建物を作っちゃったものを、模擬天守と呼ぶ。
さて、写真は浜松城天守。1958年に鉄筋コンクリートで建てられたもので、専門的な言い方をするなら望楼型の3重天守。望楼型は、安土・桃山時代から江戸時代のごく初期に建てられた古風な様式。写真1で見ると、なかなかカッコイイよね。城は浜松市役所の近くにあってバス便もよく、市民からも〝わが街の城〟として親しまれている。
でも、この天守、近くでよく見ると、何となく変なのである。まず、天守の後ろに、妙な、中途半端なスペースがある。なぜかというと、浜松城の本当の天守は、もっと大きなも建物だったらしいのだ。天守台のサイズから見て5重天守だったようなのだが、早い時期に失われてしまい史料がまったく残っていない。どんな形をしていたのか、わからないのである。
ところが、戦後になって「浜松市にも城を」との機運が盛り上がったとき、3重天守として「復興」してしまった。考証の問題もあるが、当時の市の財政では大きな5重天守は厳しかったようである。結果として、天守台の後ろ半分ほどが、余ることとなった。
しかも、四隅に付くはずの石落が一つしかない! おそらくこれも予算の都合だろう。なので、遠目に見ている分にはなかなかカッコイイのだが、本丸の中を一回りすると、どうにもアンバランスなのである。