(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
◉鎌倉殿への道(5)8月4日、頼朝、山木兼隆襲撃を企てる
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66325)
◉鎌倉殿への道(6)8月17日、頼朝、どうにか兵を挙げる!?
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66398)
何倍もの兵力に迫られた頼朝は
以仁王の令旨を掲げて兵を挙げた頼朝のもとに、伊豆の中小の武士たちが集まってきた。相模からも、湯河原あたりに勢力を張る土肥実平(といさねひら)や、三浦の支族である岡崎義実、さらには大庭景親の兄である景能(かげよし)らが駆けつけてきた。
とはいえ、問題はここからだ。すでに、大庭景親は討伐軍を編成するために相模・武蔵の武士たちに声をかけており、伊東祐親も動き出している。グズグズしてはいられない。
北条時政・宗時・安達盛長ら主だった者らで相談した結果、まずは味方になってくれると約束してくれた三浦一族と合流しよう、ということになった。北条の地から、東に一山越えれば土肥一族の勢力圏だ。そこから海沿いに北へ向かえば、早川か酒匂川のあたりで、駆けつけてくる三浦一族とも合流できるだろう。
300に満たない叛乱軍を率いて、頼朝が土肥郷へと向かったのは8月20日のこと。土肥郷で一息入れて雨をやり過ごした頼朝軍は、22日の夜に再び動き出して、石橋山という小高い山の上で23日の夜明けを迎えた。
石橋山から北東の方角を見やると、山をいくつか越えた先で早川が海に注いでおり、ずっと先に酒匂川と曾我の山並みが見える。小雨のぱらつく中、小手をかざしてこの景色を眺めていた頼朝たちの目に入ってきたのは、三浦一族ではなく大庭方の大軍だった。
どう見ても、自分たちの数倍はいる。いや十倍くらい、いるかもしれない。どうする。そうこうしているうちに、今度は南の遠方に別の軍勢が姿を現した。伊東祐親だ。頼朝軍は、進退に窮した。
やがて、曾我の山並みのあたりに煙がいく筋が立ちのぼる。三浦の者たちが、大庭方の村を焼いているらしい。しかし、この煙を見た大庭方は、早川を渡って頼朝軍に向かって進んできた。伊東勢も、じりじりと背後に詰め寄りつつある。
夕刻近くなって、頼朝軍と大庭方とは、谷一つ隔てて向かい合う形になった。雨は、いつしか本降りとなっている。やがて、時政と大庭景親とが大声でひとしきり罵りあいを演じ、双方一斉に矢を放つのを合図に、両軍が激突した・・・といっても、両軍の兵力差はいかんともしがたい。頼朝軍は、ひとたまりもなく押しつぶされ、降りしきる雨の中で多くの者が討たれていった。
頼朝は、時政と土肥実平に連れられて戦場から脱出し、馬を捨ててどうにか山の中へ逃げ込んだ。あとは、どこをどう彷徨ったものか、よく覚えていない。明くる日も、その次の日も、実平に言われるままに逃げ回り、茂みや洞穴に身をひそめて過ごしながら、皆で額を寄せ合っては、何度も善後策を相談したが、名案は浮かばない。
大庭景親と伊東祐親は、山狩りにやっきになっていたが、頼朝の生死も行方も杳として知れなかった。いや、一人だけ、頼朝が存命であることを知っている者がいた。大庭一族の梶原景時である。
景時は、山狩りの最中に潜んでいる頼朝に気付いたが、見逃したのである。成り行きで討伐軍に加わりはしたものの、義朝の旧恩を忘れがたい者や、平家専横の世を快く思わない者も、少なからずあったということだ。
※次回は8月26日に掲載予定。