(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
◉鎌倉殿への道(5)8月4日、頼朝、山木兼隆襲撃を企てる
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66325)
山木兼隆襲撃の準備を始める頼朝
道を行く村人たちが、そわそわしている。明日は、待ちに待った三嶋大社の祭礼なのだ。
頼朝も、そわそわしていた。とうとう明日は決行日だというのに、佐々木兄弟がいっかな来ないのだ。雇い主の渋谷重国から暇をもらうのに、手間取っているらしい。あの4人が加わってくれなかったら、どう考えても〝兵力不足〟だ。でも、だからといって、決行を延期したら、計画が露見するのは時間の問題ではないか。
昼近くになって、ようやく四兄弟が着いた。くたくたになって、乗る馬も揃わない有り様だ。とりあえず水を飲ませ、飯を食わせてやる。日が落ちてから、頼朝の屋敷にこっそり集まってきた武者たちは、息をひそめて待った。周囲の民家が寝静まり、三島から帰ってくる者たちの人影が、絶えるのを。
夜更けをかなり過ぎた頃、鎧兜に身を固め、腰に太刀をはき、手に弓をもった十数人の武者たちが、声も立てずに屋敷を出撃していった。「大事を成すための最初のいくさだ、遠回りになってもよいから、せめて大路を通ってゆけ」という頼朝の言いつけを守って、彼らは月明かりの中を進んゆく。屋敷には、佐々木四兄弟の末弟である高綱と、安達盛長、加藤景廉の3人が残った。頼朝の〝直衛部隊〟として。
騎乗して進む襲撃部隊は、途中で二手に分かれた。山木の後ろ盾となっている堤信遠を、いっしょに討ち果たしてしまわないと面倒なことになる、と時政が言い出したのだ。北条家の郎党を道案内に付けて、佐々木兄弟を堤邸へと向かわせる。
佐々木兄弟は、時政たちが山木邸に着くよりわずかにはやく、堤邸に達した。次兄の経高が、見張りの者を音もなく射倒す。後に鎌倉幕府の正史として編まれた『吾妻鏡』は、この経高の発した矢こそが、平家打倒の最初の一矢だったのだ、と印象深く記している。
一方、屋敷に残った頼朝は、庭の隅にある木に安達盛長を登らせて、山木屋敷の方を見張らせた。首尾よく襲撃が成功したら、火の手が上がるはずだ。はずなのだれど、待てど暮らせど、火の手は上がらない。じれた頼朝は、とうとう自分の薙刀を加藤景廉に与えて、短く「行け」と命じた。景廉は、まっすぐ山木邸へと駈け出してゆく。所領を持たない彼は、自前の薙刀も、乗る馬すらないのだ。
待ちに待った火の手が二筋、上がったのは、夜も明けかかった頃である。どうにか、襲撃は成功したのだ。ほどなく、返り血と、汗と、埃にまみれた武者たちが、帰ってきた。伊豆の流人の屋敷に、ささやかな鬨の声が上がった。
日が高くなる頃には、近隣の者たちが集まってきた。頼朝は彼らに以仁王の令旨を見せて「この通り、自分は東国の支配を以仁王様に任されている。これにより、そなたの所領を安堵(保障)する」と約束した。
ハッタリである。東国の支配を任せるなんて、令旨には一言も書いていない。以仁王は「平家を打倒せよ」と命じているだけである。でも、よいのだ。この田舎武者たちは、どうせ難しい文書なんて、読めやしない。ハッタリだろうが何だろうか、いまはこの者たちを束ねる〝力〟が必要なのだ。それに、山木兼隆を討ったいま、頼朝が伊豆の支配者ではないか。
話を聞きつけて、懇意にしている西相模の者たちも屋敷に集まるようになった。
※次回は8月23日掲載。