蛭ヶ小島伝承地に立つ頼朝と政子の像。ただし、挙兵時の頼朝の屋敷は、この場所ではなかった可能性が高い。撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(1)4月9日、すべては一通の檄文からはじまった
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64542
鎌倉殿への道(2)4月27日、頼朝、途方に暮れる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64544
鎌倉殿への道(3)5月26日、以仁王と頼政、無念の敗死
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65269
鎌倉殿への道(4)6月19日、三善康信の使者到来
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65677

キナ臭くなる、頼朝の身辺

 皆さん、前回(6月19日)の話を覚えていますか? 以仁王と源頼政が討死したあと、平家はやっきになって残党を狩り出し、令旨のゆくえを探索していた。そこで、京の三善康信が頼朝に「あんた、ヤバイから逃げた方がいいよ」と知らせてきてくれたのが、6月19日。

 さすがにキナ臭いものを感じた頼朝は、伊豆で平家打倒の兵を挙げられないものかどうか、考えはじめた。普段から屋敷に顔を出して懇意にしてくれる近隣の武士たちを、こっそり呼んだり、使いを出してみる。挙兵に参加してくれそうか、さぐりを入れたのだ。屋敷に顔を出した者は人気のないところに呼んで、「そなただけが、たのみぞ」と、手を握ってみたりもした。

鎌倉にある源義朝の屋敷跡。義朝は鎌倉に居を据えて関東の武士たちを従えたものの、平治の乱で敗死すると彼らの多くは平家方になびくようになった。撮影/西股 総生

 皆、かつて父の義朝から受けた恩義と、平家の世に対する不満を口にしたのち、一様にこう言うのだ。「みごと、兵を挙げられました暁には、必ずや馳せ参じましょう」。

 挙兵が成功したら味方になる、というわけだ。挙兵そのものに駆けつけてくれそうなのは、今は相模の渋谷氏に使われている佐々木四兄弟くらいなものである。北条一家と佐々木兄弟、安達盛長に、あとは近所で細々と自活している何人か・・・総勢で、いいとこ20人くらいではないか。そんな〝兵力〟で、何ができるというのだ。

 そうこう悩んでいるうちに、頼朝の身辺はいっそうキナ臭くなってくる。相模の大庭景親が、京での大番役(警備の勤め)を終えて帰ってくるらしい。景親は、かつては義朝に仕えていたが、今は平家にうまく取り入って、相模の仕切り役におさまっている。その景親が、平清盛の命を受けて頼朝を討つのではないか、ともっぱらの噂だ。

 頼朝は焦った。いや、頼朝以上に北条時政が焦っていた。政子がくっついてしまった以上、北条家も頼朝と一蓮托生だからだ。こうなったら、やられる前に一か八か、やるしかない。頼朝と時政は、宗時、義時、安達盛長らと密議をこらす。

「山木兼隆に夜討ちをかけられないだろうか」

 山木兼隆は、平家の手先として目下、伊豆で絶大な力をもっている。もとはといえば、都で不祥事を起こして伊豆に流されてきたのだが、平家に上手く取り入って、今ではやりたい放題だ。ただ、はっきり言って、あまり柄のよくない手合いなので、快く思わない者も多い。時政だって含むところが、ある。

画面中央が蛭ヶ小島伝承地。背後に見える山は戦国時代の韮山城砦群だが、この山の麓のあたりに山木兼隆の屋敷があった。

 相談の結果、8月17日なら何とかなるかもしれない、という話になった。その日は三嶋大社のお祭りだから、山木の郎等たちも遊びに出たり酒を飲んだりしていて、警備も手薄だろう。こうして山木邸襲撃が決まったのが、8月の4日。つい2日前に、大庭景親が相模に帰ったという報せがきたばかりだ。あわてて、佐々木兄弟に知らせてやる。

 京の役人崩れで、諸国をブラブラしながら頼朝のところに居候を決め込んでいる、藤原邦道という男がいる。この男を山木の屋敷に遊びに行かせたら、こっそり屋敷の絵図を描いてきてくれた。また、北条家の下男に、山木の下女とデキでいる者がいたので、その者を通じて情報を集める。

 頼朝は毎日、一心不乱に神仏に祈った。「亡き父上、兄上、どうか私をお守り下さい。どうか計画がバレませんように」と。

※次回は8月17日掲載。