頼朝配流地と伝わる伊豆の蛭が小島(静岡県伊豆の国市)。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(1)4月9日、すべては一通の檄文からはじまった
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64542

鎌倉殿への道(2)4月27日、頼朝、途方に暮れる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64544

一カ月動かなかった源頼朝

 4月9日からスタートした、この連載。以仁王の発した平家追討の令旨が、伊豆で流人生活中の頼朝のもとに届いたのは、4月27日(第2回)。そこから今回(第3回)までまるまる一月、間が空いたことになる。

 ずいぶん、スローペースな連載だと思われるかもしれないが、これが当時の情報伝達速度であり、実際に流れていた時間なのである。4月27日に令旨を受け取ってからここまで、頼朝はまったく動いていない。相変わらず、伊豆でスローライフを送っていた。そうした「時の流れ」を実感していただきたくて、この連載も今の段階ではあえてスローペースとしているのだ。

 正確にいうと、5月10日に京にいた下河辺行平(しもこうべゆきひら)という武士から、使者が来ている。源頼政が挙兵に向けて動いていることを伝える使者だ。かつて義朝に仕えていた行平は、頼朝のことを気にかけていたのだが、それだけではない。

源頼政像

 鳥羽天皇(後白河の父)の娘に八条院暲子という女性がいたのだが、母親が鳥羽天皇の寵愛深かったために、彼女は膨大な荘園群を財産として相続していた。皇位継承から外された以仁王も八条院の世話になっていたし、行平も本拠である下総の下河辺荘が八条院領だった関係で、このころ京で八条院の警護に当たっていたのだ。

 前回(4月27日・第2回)の話で、令旨を頼朝に伝えた源行家が「八条院蔵人」と名乗っていたことを覚えておいでだろうか(蔵人とは事務所職員のような意味)。実は頼政も、八条院系列の荘園利権に連なる立場であった。今回の挙兵は、八条院人脈の中で動いていた計画だったのである。

 下河辺行平の使者が京を出たのは4月下旬であろうから、そこから推測すると、頼政と以仁王は、バラ撒いた令旨の反応を待って、具体的な動きに出るつもりだったらしい。しかし、令旨の一件は平家方の知るところとなってしまう。平家側は以仁王の逮捕に動くが、この時点では、まさか頼政が叛乱の首謀者だとは思いもよらなかったらしい。

 5月15日、平家側の動きをつかんだ頼政は、急遽、以仁王を近江の園城寺(三井寺)へと逃した。そして19日には、京にあった自分の屋敷に火をかけ、一族郎党を率いて園城寺に向かった。大きな力を持っていた園城寺の僧兵たちと合流し、一気に京に攻め入ろうとしたのである。

三井寺(園城寺)。1599年完成の金堂は国宝に指定されている。663highland, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

 この叛乱に荷担すべきか否か、僧兵たちの間でも意見は割れたようだ。26日、僧兵が動かないと見た頼政は、園城寺を出て南都(奈良)に向かうこととした。僧兵たちが動かないということは、自分たちの動向は平家側に通報されていると考えてよいからだ。

 実際、平家側は平知盛を指揮官とする鎮圧軍を出動させていた。南都に向かう一行は、京の南郊の宇治で鎮圧軍に捕捉された。頼政は、何とか以仁王を逃そうと奮戦したものの、兵力の多寡はいかんともしがたく、子息ともども討死した。以仁王も逃走中に敵兵に見つかり、落命した。

平等院鳳凰堂。Martin Falbisoner, CC BY-SA 4.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

 もちろん、今日(5月26日)の時点で、以仁王と頼政が無念の敗死を遂げたことなど、頼朝は知るよしもない。ただ、もの憂げに伊豆の梅雨空を眺めているばかりである。

 さて、次回は6月19日。それまでの間、頼朝どう動く!?