鎌倉遠望。千葉常胤らと合流した頼朝は鎌倉を目指すこととなった。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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平忠常の直系の子孫

 頼朝と千葉常胤が、〝感動の対面〟を遂げている頃、大急ぎで兵をかき集めている大物武士がいた。上総介(かずさのすけ)広常である。

「常」の字が共通することでわかるとおり、広常と常胤はもともと同族である。平将門の叔父にあたる平良文を祖とし、良文の孫の忠常の代から嫡流が上総介を世襲して、上総平氏と呼ばれた一族である。その忠常はかつて、支配地域からの税を朝廷に納めず、叛乱を起こして一時、房総一円を支配下に置いたことがある(平忠常の乱)。

 のちに、この上総平氏から分かれた分家が千葉氏である。したがって、分家の千葉氏が下総の一部を勢力圏としていたのに対し、本家筋の広常は、上総国では圧倒的な力を持っていた。このときも広常は国内一円に号令をかけ、反対する者を成敗すると、上総の全武士団をまとめあげた。その分、常胤より時間がかかったわけである。

 9月19日、つまり常胤に遅れること2日、広常は大軍を率いて参陣した。のちに鎌倉幕府の正史として書かれた『吾妻鏡』は、その兵力を2万と記す。2万はさすがに誇大だが、石橋山の大庭景親より間違いなく大きな人数だったろう。こうして、意気揚々とやってきた広常を、頼朝はしかし、

「遅いぞ広常、何をしておったか!」

 と一喝した。広常は、恐れ入って頼朝への服従を誓ったという。

鎌倉の源氏山に建つ頼朝像。広常と対面したときの頼朝も、おそらくこうしたスタイルだったろう。撮影/西股 総生

 これも、なんだか芝居がかった場面ですよね? 常胤が叛乱に参加した事情については、前回説明したとおりだが、では広常の場合は、どうだったのだろう。

 はっきり言って、広常ほどの勢力があれば、中央の政権がどうなろうと自活が可能であった。ただ、平忠常の直系の子孫であり、生まれてこの方、他人に対して下馬の礼をとったことがないというほどプライドの高いこの男は、自立心もまた旺盛であった。広常は、かつて祖先が果たしえなかった「独立」の夢を、頼朝の挙兵に見たのである。

 ここで恩を売って関東に独立国を打ち立て、自分はその大幹部におさまる。もし頼朝がコケたら、そのときはまた上総に戻って自活すればよいのだ。そんな絵を描きながら、実際に会ってみた頼朝は、悪びれずに芝居の打てる男であった。

「面白い。この御曹司は、かつぎがいがある」

 と、広常は踏んだのだろう。田舎の武士どもを束ねるとなれば、時にはクサい芝居も必要になるからだ。

歌川芳虎『大日本六十余将 上総介広常』

 常胤の進言によって、「鎌倉」という目標と「源家再興」という大義名分を、広常の参陣によって大兵力をえたことによって、頼朝の勢いは止められないものとなった。いまや圧倒的な大兵団となった叛乱軍は、江戸湾を反時計回りに鎌倉を目指すこととなった。

 いや、彼らは叛乱軍というより、関東独立を目指す革命軍となりつつあった、といった方がよい。平家打倒の恩賞として与えられるものより、自分たちの力で勝ち取るものの方にこそ価値がある。頼朝に率いられた関東の武士たちは、そのことに気づきはじめていたのである。あれほど大事に掲げていた以仁王の令旨は、荷物の奥に大切にしまわれることとなった。

※次回は10月7日に掲載予定。頼朝、ついに鎌倉に入ります!