千葉市の亥鼻公園に立つ千葉常胤の銅像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66553
鎌倉殿への道(10)9月7日、頼朝の再起と木曽義仲の挙兵
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66772

下総きっての有力武士団・千葉氏

 9月。安房に上陸した頼朝のもとに、地元の武士たちが少しずつ集まりはじめた。また、脈のありそうな近隣の武士たちに、皆で手分けして声をかけた甲斐があって、いくつかの好反応もえられた。

 分けても、下総から戻って来た安達盛長が伝えた千葉常胤(つねたね)の言葉は、一行を大きく力づけた。

「途絶えていた源家の嫡流が再興されると聞いて、感涙で言葉も出ない。ただ、いまおいでの場所はさしたる要害の地でもなければ、祖先の由緒の地でもない。まずは義朝様の故地である鎌倉にお入りなされ。この常胤も、一族を率いてお出迎え致しましょう」

 千葉氏一族は下総きっての有力武士団だ。その惣領である常胤は、かつては義朝に臣従して保元の乱に参戦した経験もある。その義朝が、関東に勢力を伸ばすために居を構えていたのが、鎌倉だった。その鎌倉を目指すことで、かつての義朝のように再び関東武士を束ねるのがよい、と常胤は勧めているのだ。

三方を丘陵に囲まれた鎌倉の街。頼朝が幕府を開く以前は、人家もまばらな漁村にすぎなかった。

 頼朝は、進発を決意した。自分はもとより流人の身だし、ここまで従ってきてくれた北条・土肥・三浦といった者たちの屋敷や所領も、いまは敵に委ねられている。どのみち、これ以上失うものがないのだったら、可能性のある方に動こう。

 9月17日、安房を出て北上する頼朝のもとに、常胤が一族郎党300騎を率いて駆けつけてきた。頼朝は、

「今日よりは、そなたを父と思うぞ」

 と言って、常胤の手をかたく握った。何となく、芝居がかった〝感動の対面〟ではある。

 それにしても、敗残兵として漂着したも同然だった頼朝が、なぜこれほどまでに急速に勢力を回復できたのであろうか。思い出してほしい。頼朝と敵対した山木兼隆や大庭景親・伊東祐親らが、平家の政権にうまく取り入って勢力を伸ばした者たち-つまりは世渡りの〝勝ち組〟だったことを。

〝勝ち組〟がいるということは、〝負け組〟もいるということだ。北条時政は山木兼隆に恨みを抱いていたし、石橋山に参戦した大庭景能は、弟の景親と折り合いが悪かった。佐々木兄弟も不遇をかこっていた。

常胤が率いる千葉氏一族は下総きっての有力武士団ではあったが、平家の政権下では〝負け組〟となっていた。

 実は、千葉常胤も〝負け組〟であった。千葉氏一族は、平家の政権下で世渡りに失敗して不遇をかこっており、政権にうまく取り入った常陸の佐竹氏に、荘園利権を奪われたりしていたのだ。このように、現政権下で冷や飯を食っている〝負け組〟の中から、このままジリ貧に甘んずるのであれば、一か八か叛乱に賭けてみよう、と立ち上がる者が現れたのである。

 そうした者たちの背中を押したのが、かつて義朝に仕えた記憶だった。三浦義明・千葉常胤という二人の長老が、同じように「源家再興に感動した」と述べたのも、偶然ではない。「源家再興」「義朝の故事」こそは、関東の武士たちに対して大義名分として振りかざすことのできる、パワーワードだったのだ。

 鎌倉へ——。頼朝軍は、明確な目標へ向けて進撃を開始した。

鎌倉にある義朝邸跡。平治の乱から頼朝挙兵まで21年を経ていたが、関東の武士たちの中には、義朝に仕えた経験を持つ者も多かった。

※次回は9月19日に掲載予定