源頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社。頼朝は三嶋大社の祭礼の日に挙兵した

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(1)頼朝を取り巻く人々PART1
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68307
鎌倉殿の時代(2)武士とは何者か?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68308
鎌倉殿の時代(3)院政とは(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68310
鎌倉殿の時代(4)院政とは(後編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68311

頼朝軍の主力は「一家」と「兄弟」

 伊豆でついに平家打倒の兵を挙げた頼朝。では、そのときの兵力は、どのくらいだったのでしょう? 『鎌倉殿の13人』で中世軍事考証にあたっている私の考えは、以下のようなものです。

 まずは、山木邸襲撃ですが、頼朝直属の家人は安達盛長だけ。『吾妻鏡』によれば、このとき頼朝は、参加を約束してくれた佐々木四兄弟がなかなか来ないので、かなり焦っています。だとしたら、頼朝がアテにできた兵力は、佐々木兄弟が決定的な戦力になるくらいの数、と考えてよいでしょう。

 また、佐々木兄弟の末弟の高綱と安達盛長、それに加藤景廉(かげかど)の3人を護衛として屋敷に残した、と記録されています。しかも、山木邸からなかなか火の手が上がらないのにじれた頼朝は、加藤景廉に薙刀をさずけて増援として送り出したので、景廉は山木邸の方に走って行った、と記録されています。つまり、護衛として残した3人は、乗る馬もなく装備も整わない連中だったわけです。

源氏山公園の源頼朝像

 もちろん、北条家にだって家人はいます。そこで歴史家の中には、北条家だけでも数十人は動員できたはずだから、山木邸襲撃はそこそこの人数だった、という人がいます。でも、ここで述べたような経緯を考えるかぎり、参加者は北条一家と佐々木兄弟、それに若干のご近所さん、くらいなものだった可能性が高いのです。

 だいたい、反平家の旗挙げなのだから、北条家だけで何十人も動員できるなら山木兼隆に真っ向勝負を挑むべきです。夜討ちなどという姑息な手段に出たのは、頭数が揃わないからでしょう。山木邸襲撃の「兵力」は、ドラマで描かれたようにせいぜい20人くらいだった可能性が高いのです。

 それにしても、主力が北条「一家」と佐々木「兄弟」なんて、西部劇か任侠モノみたいですよね。鎌倉幕府という日本初の武家政権を打ち立てる戦いは、田舎ヤクザの出入りみたいなところから始まった、というのが歴史のキモなのです。

 それから、石橋山合戦。頼朝軍の兵力について、『吾妻鏡』は「300騎」と記していますが、『平家物語』を読むと「300騎以上はいそうもなかった」と書いてあります。実際は、300を切っていたのではないでしょうか。

石橋山古戦場

 対する大庭景親方は、『吾妻鏡』も『平家物語』も「3000騎」と伝えていますが、少々オーバーな気もします。頼朝軍の側から見て「うわー、敵は大軍だなー、こっちの10倍くらいいそうだぞ!」みたいな感じで「3000騎」と伝わった可能性が高いです。

 ただ、大庭方が頼朝軍より圧倒的に多かったのは、間違いありません。なぜなら、景親は夕方になってから戦端を開いているからです。この時代の合戦は、夜のうちに軍勢を移動させて、朝から始めるのが普通です。自分たちの動きや布陣を敵に知られないためと、昼間の時間をできるだけ長く使いたいからです。

 にもかかわらず夕方になって開戦したのは、景親が「一撃で蹴散らせる」と踏んだからでしょう。なお、このあたりの詳しい話が知りたい方は、拙著『鎌倉草創−東国武士たちの革命戦争』をぜひ、ご一読下さい。

西股総生・著『鎌倉草創  東国武士たちの革命戦争』ワン・パブリッシング刊