白河院

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(1)頼朝を取り巻く人々PART1
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68307
鎌倉殿の時代(2)武士とは何者か?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68308

上皇・法皇が政治を仕切るようになったのか

「院政」という言葉から、皆さんは何をイメージしますか? 社長や総理を退いた人が、後継の現職を後ろから操っているイメージを持つ方が多いと思います。

 院とは、皇位を退いた上皇や法皇のこと。上皇が出家すると、法皇と呼ばれます。もともとは、上皇・法皇の住まいを院と呼んでいましたが、だんだん本人のことを指すようになりました。その院=上皇・法皇が実質的に政治を仕切るのが、すなわち院政です。

 ではなぜ、上皇・法皇が政治を仕切るようになったのでしょうか。

 院政を始めたのは、1086年(応徳3)に退位した白河上皇です。ちょうど頼朝の祖先の義家が、後三年の役という奥羽の内乱にかかわっていた頃のことです。

 日本の古代国家は7世紀半ばから8世紀にかけて、律令制と呼ばれる中央集権的な支配体制を打ち出します。律令制では、日本全国の土地と人民は天皇のものと定められ、全国一律の統一基準によって徴税を行うことになっていました。

 それまで、自分の領地を自力で治めていた古代豪族たちは、天皇から官位と官職を与えた宮廷貴族となって、国庫から身分や役職に応じたサラリーを支給されます。各地方は、都から派遣される国司などの役人が支配することになったのです。

 ところが、いつの世も支配者という人種は貪欲です。政治を牛耳るようになった有力貴族たちは、あの手この手で法の網の目をかいくぐり、抜け道をさがして、蓄財に血道をあげます。あるいは、自分たちの権益に都合がいいように、法の施行細則や運用基準を変更して、規制を骨抜きにします。ここに登場してくるのが、荘園です。

 荘園とは、一言でいうなら「開発特区」です。もともとは国を豊かにするために、田畠の開発を奨励する特区制度があったのです。特区では事業者への優遇措置として、一定期間の国税が減免されます。政治家(=貴族)たちは、自分が事業者となって私腹を肥やしながら、税の減免ワクをなし崩し的に広げてゆきました。

 こうして、事実上の個人資産となった開発特区が、すなわち荘園だったのです。「全国の土地と人民は天皇のもの」という律令制の原則は、否定も改革もされずに、少しずつ有名無実化してゆきました。

 奈良時代から平安時代の初期にかけては、特区制度に名を借りた野放図な荘園開発が横行する時代でした。でも、ハゲタカのような乱開発が長続きするはずはありません。取れるものを取ったら後は野となれ山となれ、とばかりに農地は荒廃してしまいます。

 かわって登場したのが、再開発という名の地上げです。納税者がバラバラの農地を、再開発という名目でまとめ上げて、アガリを政治家に寄付することで、国税減免の認可を受けるのです。平安時代の半ば以降は、このタイプの荘園が大流行し、有力貴族たちはわが世の春を謳歌することになりました。

後白河院。平家との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たす。鎌倉幕府とは軋轢を抱えながらも協調し、その後の公武関係の枠組みを構築

 ただし、荘園が大増殖すると、とても困る人がいます。天皇です。なにせ、タテマエ上は「全国の土地と人民は天皇のもの」のはずなのです。天皇には、個人資産をもつ法的根拠がありません。にもかかわらず、荘園がどんどん増えると、国庫収入はどんどん目減りして、皇室財政は行き詰まります。(後編につづく)

 

西股総生・著『鎌倉草創  東国武士たちの革命戦争』ワン・パブリッシング刊