(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
◉鎌倉殿の時代(1)頼朝を取り巻く人々PART1
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68307)
◉鎌倉殿の時代(2)武士とは何者か?
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68308)
◉鎌倉殿の時代(3)院政とは(前編)
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68310)
院が朝廷に君臨できる理由
(前編から)荘園の乱立による皇室財政の窮乏に直面した朝廷は、たびたび荘園整理令を出しました。手続きに疑問点のある荘園の認可を取り消して、国庫収入の回復を図ろうとしたのです。でも、天皇がいくら意気込んでも、実際に許認可を司る政治家(=貴族)たちが、荘園の既得権益層なのですから、うまくゆくはずがありません。
こうして、荘園整理令がなかなか効果をあげない中で皇位についたのが、白河天皇です。彼は、逆転の発想で問題を解決する方向に踏み出しました。貴族たちが、法の網の目をかいくぐり、抜け道をさがして資産形成にはげむのなら、自分(天皇家)も同じことをすればよいのだ、と。
ネックになるのは「天皇」という、個人資産を持てない立場です。そこで白河は天皇という公職を退いて上皇、つまり隠居した私人になりました。そして、寺を利用することを思いついたのです。天皇が寺に関われば公務・国務ですが、私人である上皇が、自分の信心で寺を建てる分には政治的制約は生じません。その寺に荘園を寄付させて、自分の財布にするのです。要するに、宗教法人を隠れ蓑にした蓄財みたいなものです。
さらに、上皇が出家して法皇となれば、自分で寺を持とうが運営しようが、誰にも文句を言われる筋合いはありません。新法を制定することも、律令という不磨の大典を改正することもなく、白河は莫大な資産群を形成することに成功しました。
次の問題は、相続です。院(=上皇・法皇)が形成した資産群を、どう相続させるか。この問題は必然的に皇位継承と直結します。天皇という立場は、もはや「院の候補生」としての意味しか持たなくなりました。そして、自分の息子や娘たちにどう資産を相続させるかは、院の胸先三寸です。ゆえに、院がキングメーカーとして朝廷に君臨できるのです。
これが、平安時代の後期に日本を支配した院政の正体です。要するに、院政とは天皇家の資産形成システムだったのです。しかも、大きな権益には多くの人が群がります。院が集積した莫大な資産群は、権益によって貴族や武士たちは系列化されることになりました。細かい話は省きますが、保元・平治の乱も、権益による貴族・武士の系列化が進む中で起きた権力闘争だったのです。
保元・平治の乱で勝ち組となった平清盛が、閨閥政治を強引に進めた理由も同様です。清盛は、まず義理の妹である滋子を後白河天皇の妃に入れ、さらに彼女が生んだ高倉天皇に自分の娘の徳子を入れて、安徳天皇を生ませました。白河→鳥羽→後白河と受け継がれてきた膨大な資産群を、安徳天皇に相続させる流れを作り出すのが、清盛の目的でした。
この清盛による閨閥支配で、カヤの外に置かれていたのが以仁王です。以仁王は後白河の皇子で高倉の兄に当たりますが、母が違います。後白河は皇位をいったん二条天皇に譲ったのち、滋子の生んだ高倉に継がせました。皇位は、閨閥から外れていた以仁王の前を素通りしていったのです。以仁王が、挙兵を企てるほど平家の支配に不満を募らせた要因も、ここにありました。
いかがでしょう? 平安時代後期に日本を支配した院政とは、身もフタもないほどえげつない権益の分捕り合戦であり、権力闘争のワク組でした。もっとも、そう考えるなら、平安後期の院政も現代の「院政」も、本質は意外に同じなのかもしれませんが・・・。