(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
◉鎌倉殿の時代(7)義経と弓(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69019)
大陸や朝鮮半島との交易の窓口は?
今回はちょっと視点を変えて、「鎌倉殿の時代」を東アジア世界という視点から考えてみましょう。
奈良〜平安時代の日本は、基本的には中央集権国家です。「中央集権」というと、中央の政府が政策を一元的に決める体制、というイメージを持つ人が多いと思います。でも、歴史的に考えると、そのイメージは少しお人好しすぎます。
中央集権国家というのは、全国の土地と人民が産する富を、中央の支配階級が一元的に吸い上げる国家体制のことです。この原理は、現在でも基本的には変わっていません。「地域興し」やら「地方創生」やらをいくら掲げてみても、たいがいは一過性のイベントで終わってしまうのも、このためです。中央が一元的に政策を決める体制=中央が一元的に富を吸い上げる体制をとり続けるかぎり、東京への一極集中は解消しません。
さて、平安時代の日本では、朝廷のある京都と副首都の奈良に富と文化が集中する社会で、その外側は全部田舎でした。都から遠く離れた関東地方など、ド田舎もいいところ。
では、その関東よりもさらに都から遠い奥羽(東北地方)は蛮族の住む文化果つる地かというと、そうではないのです。なぜかというと、日本は東アジア世界の経済圏の中にあったからです。どういうことでしょう?
大航海時代以前の東アジア世界は、圧倒的な文明先進国である中華帝国を中心として、それを後進国がとりまく構造で成り立っていました。中華帝国とは随や唐、鎌倉殿の時代なら宋です。日本ももちろん、辺境の後進国です。
日本は9世紀の末に遣唐使を廃止したので、中華帝国との正式な国交はなくなりました。ただし、国交と民間の交易は別です。現在でも、日本と中華民国(台湾)との間に国交はありませんが、民間の交易は盛んですよね? 平安時代の場合、大陸や朝鮮半島との交易の窓口となっていたのが、九州北部と津軽半島です。
手元に世界地図がある人は、東アジアの地図を逆さまにして、大陸から日本を見るアングルにしてみて下さい。日本列島は、太平洋の縁にへばりついているように見えますよね。と同時に、九州北部と津軽が大陸への窓口だったことも、腑に落ちるはずです。
そして、もう一度、日本列島をよく見てみましょう。太平洋の縁にへばりついている本州のいちばん外側、九州からも津軽からもいちばん遠いところにあるのが関東です。それにくらべたら、奥羽の方がはるかに大陸に近いことがわかります。
奥州藤原氏が平泉に文化都市を築くことができた理由が、ここにあります。よく、奥州藤原氏の繁栄を支えたのは砂金と良質の馬だったと言われますが、それだけではないのです。当時の奥州は、東アジアの経済圏の中では、関東よりはるかに優位な地政学的条件を備えていました。
実際、平泉や津軽地方の発掘調査では、大陸から輸入された高級な陶磁器などが「これでもか」というくらいに出土します。同時代の関東よりはるかに豊かな商品経済の中にあった証しです。
逆にいうなら、平安時代の関東は、日本でもっともどん詰まりのド田舎。武家政権の創始は、そんなド田舎で起きた事件だったのです。