武家政権となった鎌倉の地。海に面し、三方を山に囲まれている 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(20)幕府とは? 鎌倉殿とは?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68126

武士たちによって推戴されるボス=「鎌倉殿」

 日本の中世〜近世の場合、武家政権のボス=征夷大将軍という図式で考えるかぎり、征夷大将軍が率いる武家政権=幕府になる。全体とするなら、この図式で説明した方が、わかりやすい。

 ただし、政権の成立期については、必ずしもこの図式が当てはまらない。権力というものは、ある日突然、ぽこんと爆誕するわけではないからだ。『鎌倉殿への道』の連載を読んできた方はおわかりだろうが、新しい権力は、いろいろな出来事をへながら少しずつ形づくられるものである。

 鎌倉幕府の場合だと、頼朝が鎌倉殿となったのは1180年(治承4)12月のこと。この時点で、南関東一円と北関東の一部を勢力圏とする事実上の軍事政権が成立していた、と見ることができる。

 一方、頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられたのが1192年(建久3)のこと。この時点で頼朝は、すでに平家を滅ぼし、奥州藤原氏を討って、頼朝に対抗できる軍事力は国内になかった。朝廷は、こうした軍事的実績を踏まえて、征夷大将軍の官職を与えたことになる。つまり、頼朝が軍事政権のボスであるという事実を追認したわけだ。

源氏山公園の源頼朝像 撮影/西股 総生

 ところが頼朝は、2年後には征夷大将軍を辞任する、と言い出している。このときは朝廷が辞表を受理しなかったので、将軍のポストは宙ぶらりんになってしまった。5年後の1199年(正治元)に頼朝が没して、頼家が後を継ぐが、頼家が正式に征夷大将軍に任官するのは、その3年後のことである。

源頼家像

 つまり、1192年から1202年までの10年の間、征夷大将軍の地位は、切れかかった蛍光灯のように点いたり消えたりしていたのである。この状態は、頼家が失脚して実朝が擁立されたときも、実朝が横死して藤原頼経が後継者となったときも、同じ。

鎌倉幕府4代目の将軍となった藤原頼経

 もちろん、その間に鎌倉幕府の権力は、点滅していたわけではない。ボスが将軍の官職にあろうが、なかろうが、鎌倉には武士たちを束ねる権力が、ずっと存在していた。なぜかというと、「武士たちを束ねる権力」の源泉は、征夷大将軍という肩書きにではなく、武士たちによって推戴されるボス=「鎌倉殿」という立場にあったからだ。

 このように考えてくると、「イイクニつくろう」の1192年(建久3)鎌倉幕府成立説が、はやらなくなった理由がわかるだろう。征夷大将軍任官は、実態を追認した形式的なできごとでしかなく、武家政権の実態はすでにできあがっていたからである。

 では、鎌倉幕府はいつ成立したのかというと、いくつかの考え方がある。現在もっとも有力なのが、「イイハコつくろう」の1185年(文治元)説。朝廷から全国に守護・地頭を置くことを認められた時点をもって、全国支配の基礎ができた、という考え方だ。

 ただ筆者は、鎌倉幕府自身が創立記念日と見なしている1180年(治承4)12月を重視するべきだと思う。なぜなら、鎌倉政権の権力の源泉である「武士たちによって推戴される鎌倉殿」という体制が成立しているからだ。

 というわけで、このあたりの詳しい話を知りたい方は、もちろん新春スタートの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていただきたいのだが、もう一つ。2022年1月11日発売予定の拙著『鎌倉草創−東国武士たちの革命戦争』(ワン・パブリッシング)をぜひ、ご一読下さい。

西股総生・著『鎌倉草創  東国武士たちの革命戦争』ワン・パブリッシング刊